山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(前編)

山下敦弘と李相日の15年(前編)

 山下敦弘監督の新作『オーバー・フェンス』と李相日監督の新作『怒り』は、いずれもふたりのフィルモグラフィーを更新する、それぞれの最高傑作になった。『オーバー・フェンス』は郷里の函館で職業訓練校へ通う男が、喪失感に苛まれ、孤独に傷つきながら、女との出会いに光を見出すヒューマンドラマ。『怒り』は八王子で起きた夫婦惨殺事件を発端に、千葉・東京・沖縄に現れた正体不明の男たちと、彼らの潔白を信じ、同時に不安で揺れる周囲の人たちの闇を炙りだすミステリーだ。

 『オーバー・フェンス』はマイナーポエットとして短い生涯を閉じた作家、佐藤泰志の原作を映画化したもので、『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続く“函館三部作”最終作に位置づけられる。『海炭市叙景』以降、主なスタッフの顔ぶれを引き継ぐ“函館三部作”チームに、山下が迎え入れられたかたちだ。ひょっとしたら、絶妙な間でおかしさや切なさを切りとってきたこれまでの山下作品と比べたとき、『オーバー・フェンス』はだいぶ異なったトーンの作品に思えるかもしれない。持ち前の軽やかさ以上に、息苦しさが際立つからだ。でも原作がもともと持つ孤独感や閉塞感を、『そこのみにて光輝く』に続き脚本を担う高田亮が各キャラクターに巧みに落とし込み、山下はその陰影を柔軟な演出力で作品に刻みつけた。

「『オーバー・フェンス』は、思いがけず自分の癖も出た映画ですが、どこか客観視できるんですよ。計算はしなかった。それはシンプルに高田(亮)さんのホン(脚本)が面白かったから。(中略)出来上がったものは、自分の感覚とは別なところに行けています。自分が観ても面白い。ズシズシくる作品。役者たちも全員フルスイングしています。ここで得たものが、これからの自分を変えてくれそうだと感じています」

 みずからこう話すように、『オーバー・フェンス』は山下がかつて住み慣れた世界を離れ、新たな領野へ勇敢に歩みだした作品だ。片や『怒り』は『悪人』に続き、吉田修一の原作を李が映画化した作品だが、彼もここでみずからの目指す場所へとさらに力強い一歩を踏みだしている。『怒り』の求心力となっているのは、惨殺事件の真犯人は誰かという謎解きの物語。でもそこを足場に、李は事件の周縁で人々が織り成す“真”と“偽”、あるいは“信”と“疑”のドラマを、沖縄の米軍基地問題や性的マイノリティーの問題を絡めて濃密に描きだした。愛した人の真実の顔とは? 誰かを信じることとは? 突きつけられるのは、真犯人を巡る謎が明らかになっても、決して解明されることがない人間の謎そのものだ。李は言う。

「自分で多少なりとも達成感があったのは、観終わり感としてわかりやすい答えを提供するのではなく、明確な“クエスチョンとしての映画”を作れたってことですね。僕の映画って対立構造がいつもあるんですけど、オリジナル脚本を書いていた頃は、自分と他者、自分と世界の対立軸にとどまっていたんです。でも『悪人』をきっかけに内省的な対立へと変化していった。今回はその探究をさらに深くできた気がして、それはやはり『怒り』という小説がなければできなかったわけです」

 ともに最新作で最上の成果を収めた山下と李だが、作風は大きく異なるものの、実は彼らには奇妙な一致点がある。ふたりとも大学の卒業制作作品が映画祭でグランプリを受賞し、そのまま劇場デビュー。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭オフシアター部門でグランプリを獲得した、山下による大阪芸術大学の卒業制作作品『どんてん生活』も、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)アワードでグランプリを獲得した、李による日本映画学校(現在の日本映画大学)の卒業制作作品『青 chong』も、同じく2001年に公開された。そして日本映画が激しく揺れ動いた15年を経て、今年、“同期”のふたりはひとつの到達点に辿りつく。『オーバー・フェンス』と『怒り』の公開日が同日、9月17日だというのも奇遇だ。

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