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菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第7回(後編)

菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について

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HIP HOP(中でもG-RAP)の特異性

 今では、「お茶の間の人気者」の臨界まで来ていると言って良いMC漢の名著「ヒップホップ・ドリーム」に活写される、あるいは氏のリリックにエグいまでに描かれる、新宿をフッドにしたハスラーライフのリアルに関して、ほとんどの日本人は、深く納得し、震えながら、同時に納得できないでいる。構造的な矛盾と言って良い。

 それは「これは本当のことだと思うのだけれど、でも、これが本当のことで、なぜ、本に書いたり、ラップにしたり、MVに本物の大麻が大量に写ったりしても捕まらないのか?」というもので、氏を疑っているのではない。絵に描いたような、これはパラドックスであって、おそらく当のMC漢氏も、思考のどこかで気づいている(=とぼけている。と言っているのではない。氏はパラドックスを生きている)。

 HIP HOP、特にG-RAPというカルチャーの特殊性がここにある。所謂「不良文化」の中でも、程度や量的な差ではなく、明らかに質的な特異性がある。彼らも含め、DQNを正視する事ができない人々は、物が正視できない人間の限界として、何でもかんでもごっちゃにしてしまう。

「不良文化」のエンターテインメント化について

 筆者は歌舞伎町在住時に、今は亡き「歌舞伎町クラブハイツ」で不定期に行われていた「素人の喧嘩の地下大会」である「頂上 (「てっぺん」)にも通っていたし、これを前田日明氏がアマチュアスポーツにブロウアップした「THE OUT SIDER」の立ち上げから数年間は、ほぼ全大会を観戦した。

 「頂上」はリングドクターもおらず、怪我があった際は、急患の受け入れ態勢が整っている、会場に隣接した「大久保病院」に 急患で運ぶ事になっていた。筆者はインフルエンザの罹患でここの深夜急患となった事があったが、後頭部がばっくり割れて背広の背中を血で染めながら携帯電話で事務所に指示出しをしている者や、泡を吹いて暴れ、看護婦たちに抑えつけられている者、怒鳴り続ける者、筆者のような、地域住民で急病にかかった者などが入り混じり、公衆電話の上には「治療が終了したのに長居した者、大声を出した者、器物を破損壊した者がいたら即補導措置を取ります 新宿警察」という張り紙が貼ってあった。

 アンダーグラウンドからオーヴァーグラウンドにステージを移したものの、初期の「THE OUTSIDER」の入り口にはバウンサーがおり、観客は荷物を金属探知機に通され、エモノ(柄物)があった場合は没収された。

 とはいえ、ほぼ全員に和彫りが入っていた(現在はそうでもないが、開催当初は和彫りの展覧会という側面もあった団体だった)選手たちは、「格闘技によって」「更正した」という錦の御旗があった。それは一部ではリアルだろうし、一部ではフェイクだったろう。しかし、公式見解はそうなっていた。

 遠い古代では「ロックンローラー」もそうだった。彼らは「音楽によって更正した」というデフォルトで、どれほどワイルドに振舞おうと、それは「昔の名残」をカリカチュアライズしたものだった。

 彼等を「怖い」と思う人々は、彼等の「昔の名残のカリカチュア」に恐れおののいていることになる。「怖さ」とは何だろうか?

 しかしロックンローラーもラッパーも音楽家、つまりはエンターテイナーだ。我らが50CENTのブリンブリンのネックレスやクソでかいアメ車がレンタルだった。というニュースの悲しみには「やっぱりな」という感覚に立脚している。しかし、50の体内にはまだ取り出せない銃弾が埋まっている。リアルはどっちだ。

 しかし、「リアル」を旨とし、「フェイク」は撲滅しなければいけないG-RAPPERたちは「更正しないままエンターテイナーに成る」というパラドックスを生きる(麻薬中毒患者もしくは精神病者が一流プレイヤーであるとイメージされた、60年代までのジャズミュージシャンも同様である。筆者はここ「にも」ジャズとヒップホップの隔世遺伝性の一端を見る)。

 これは100%の新種ではない、むしろ幼形成熟と似ている。ロックンローラーも、ブルーズメンも、ジャズのダンスバンドのリーダーも、ソウルシンガーさえ、発達の最終段階では「更正」したことにする。その構造だけが「遵法の不良」として唯一のものだからだ。実際、どれだけ楽しいエンターテインメント業界の、どれだけ楽しいエンターテイナーが、どれだけの犯罪を犯し、裏ではどれだけ「怖い人」なのかは、観客には想像もつかない。誰もが怖い人と認識するG-RAPPERたちは「遵法の犯罪者」なのか「違法の犯罪者」なのかさえ、空中に浮いている。パラドックスがそのままリアルとして凍結保存されている。

 そして転ぶことも簡単だ。怖い者、は、面白い者、に、比較的簡単に反転する。あのチーフキーフがとうとうセルフパロディをやり、MVに登場する(ほぼ間違いなく本物の)軽機関銃をランボーのようにぶっ放し、特殊メイクの敵が、頭部だけ吹っ飛ばされた時、我々は手慣れた調子で、転向を一つ数え、微弱な寂しさとともに、肝の底からホッとするのである。未発達のまま、独自の危険なリアルを放っていた、異界の住人が、自分の友人になるからだ。

 刺青もパーティーグッズの札束も、チャカの一発も引かない事よりも、「ケンとカズ」に流れる音楽に筆者は強く感心した、この作品を観た者が誰でも言うであろう「シェイクスピア的な血の悲劇」のバックに流れるのは、逐語訳のようにして、重く暗い和音の継続、つまりシェイクスピア悲劇に流れるような音楽のみで、HIP HOPを(状況音としても)一切流さない。

 勿論筆者は、ハスラーライフとエンターテイナーの二律背反を、フェイクと言っているのでは全くない。彼らの非常に奇妙でアクロバティックな立場と比べれば、本作「ケンとカズ」の登場人物は、もっとずっとシンプルにリアルで、彼らは、簡単に言えば、「音楽どころではない」暮らしをしている。

 空族が製作した傑作「サウダーヂ」は、地方の暴力団が、(後に殺人を犯す)ラッパーに向かって「なあお前、ヒップホップもいいけど、そろそろ止めてウチに来ねえか?」という名台詞を積載したが、ケン、カズ、テル、藤堂、田上、国広等スクエアプッシャー及び、その指示者等の暮らしは、音楽どころではないどころか、あらゆる、それどころではない、底辺の暮らしである。一瞬の気も抜けず、悲しみと真実だけが張り巡らされる血の悲劇である本作の中で、救済の、導引の天使は、音楽やダンスやペイントや、車や酒やセックスやドラッグですらない。ギリギリまでカズを守る彼の妻と子は、本作のラスト、美しいまで惨たらしく、流麗とすら言えるナイフの移動を見せる刃傷沙汰の数日前に、逃げてしまう。それは、冒頭近くに一瞬出てくるパチンコ、そして、藤堂の好物であるプッチンプリンとビールだけだ。

      

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