『太陽』はなぜリアルに感情移入できるのか? 入江悠監督が“不寛容の時代”に投げかけたもの

入江悠が『太陽』で描きたかったもの

 ドナルド・トランプ氏の物言いしかり、昨今話題の有名人の不倫に対する日本社会(?)の対応しかり…寛容さの欠如という以前に、そもそも相手の立場になって少しでも何かを想像することがあまりにもできなくなっている。そんな時代に、この傑作が公開されるということは、歴史的な必然なのだろうか。

 新人類【ノクス(夜に生きる存在)】と、太陽の下で自由に生きられるものの、ノクスに管理されることで貧困を強いられている旧人類【キュリオ(骨董的存在)】。2つの人類の相克を描く『太陽』は、様々なメタファーをはらんでいる。言い換えれば、世代を問わず、誰にでも感情移入が可能ということだ。しかし、持てる者と持たざる者(あるいは、勝ち組と負け組とか? )という単純な話ではない。そこが、本作を非凡たらしめているゆえんだろう。

 「『太陽』の世界観と問題提起は僕自身がもやもやと抱いていたものと近く、そういう意味では自分にとって10年に1度の企画だと思いました」と入江悠監督が語るように、今の時代に対する強い問題意識を感じる映画なのである。

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 キュリオは、20歳までに手術を受ければ、裕福なノクスになることができる。しかし、ノクスは、太陽の下では生きられないという重大な欠点を持っている。この複雑さが、世界は単純ではないということを示している。

 例えば、トランプ氏は「1100万人いる不法移民を強制送還する」と言っているが、現実は、不法移民がキツい仕事を引き受けることでアメリカ社会が回っているという側面もあり、また、トランプ氏こそが不法移民を安価に雇用し、自身のビジネスを成功させてきたという指摘もある(日本も似たような構造であることは日常生活でも感じられるだろうし、しばしば話題になる外国人農業実習制度の問題などを考えれば、早晩、日本も同じ矛盾を噴出させるのではないかと思う)。

 ことほどさように、現在の物事は複雑なのである。だからこそ、この作品は、ヒリヒリとしたリアリティを含んだ感情移入を誘発するのだ。

 キュリオ側の奥寺鉄彦(神木隆之介)・生田結(門脇麦)・生田草一(古舘寛治)らの日常は日本の寒村そのものだが、まさにそれこそが彼らの生活であるとの説得力がある。この点を、入江監督は「演劇の台本をそのまま映画化するとかなり長大になってしまうため、オリジナルから生かすシーン、削るシーンをシビアに考えることが必要でした。劇版と見比べていただけるとわかりますが、映画版では貧しい人類「キュリオ」の方を重点的に描き、新人類「ノクス」の社会については最低限のみの描写にしています。美術や装飾を具体的に設定するにあたり未来の社会を構築するのが現状の日本映画の規模では大変だったため、というのが省略に主な理由です。一方、キュリオの社会については、太陽の下での農作業や生活など、映画ならではのシーンを追加してできるだけ具体的に描写しました」と語っており、狙い通りの効果をあげている。

 必要最低限の食事や衣服や住居はあるが、ノクスの力を借りなければ、これ以上、発展のしようがないという感じが、2016年の日本の断片ようで何ともやるせなく、身につまされてしまう…。

 キュリオが主軸となって描かれるが、ノクスについて説明不足ということはない。ノクス側のマキャベリスト然とした価値観が、十分に伝わってくるからだ。

 神木隆之介・門脇麦の熱演もさることながら、個人的に印象に残ったのは、生田草一役の古舘寛治やノクス側の曽我征治を演じる鶴見辰吾ら、ベテラン俳優たち。このキャスティングについて、入江監督が「まず物語の主軸である主演の鉄彦を決めるのが最優先で、この役に神木隆之介くんが決まったことで映画化が大きく動き出しました。彼と幼馴染であり、同じく主軸となる結には門脇麦さんが決まり、この二人の変遷を描くことが映画として最も大事だと認識しました。二人以外にも、古川雄輝くん、水田航生くんなど若い俳優さんが決まり、その後は古舘寛治さん、鶴見辰吾さん、村上淳さんなど前から面識のあった方に年長側の役をお願いしました。全体的に、実力派の方ばかりで演技も上手い方々なので、撮影時に演出していても楽しく、脚本を書いていた時の想像をはるかに超えたシーンが撮れたのがなによりも嬉しかったです」と語るように、素晴らしい化学反応を見せている。

 例えば、曽我を見ていると、こういう感じの人いるよなーと思わせてくれるのが面白い。悪人なのではなく、ただただ懇切丁寧に正論を言うのだが、どこか思いやりに欠ける感じと言えばいいだろうか。しかし、ふと思うのだ、自分も時に、この曽我のような振る舞いをしていないかと。

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 そう、主に描かれるキュリオ側だけではなく、ノクス側の人物にも自分を投影させてしまうのだ。なぜなら、人は、それぞれの立場があり、それぞれの正論があり、それぞれの感情があるということをシッカリと伝えてくれるからである。登場人物たちが、なぜそう考え、なぜそのような行動をするのか、キチンと納得できるのだ。これは、かなり稀有なことではないだろうか。

 エンタテイメント作品において、登場人物の感情の流れが不可解というか、飛躍があるというか、どこか自分とは違う絵空事の人物として引き離して捉えることで納得させている場合が多いと思うのだが、『太陽』においては、そういったところが全くない。言い換えれば、いわゆるヒーローやヒロインが不在であるにも関わらず、SFであり、青春ドラマであり、ラブストーリーであり、究極の家族の物語として成立させている、まごうことなき傑作なのである(そういった意味では、入江監督の代表作のひとつである『サイタマノラッパー』シリーズも、ヒーロー不在で、身につまされる傑作であった)。

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