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ロン・ハワード監督が豪快な演出で描き切る、人間の飽くなき強欲と無力

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ロン・ハワード
小野寺系
洋画
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 復讐に燃える狂気の捕鯨船長エイハブと、彼の片足を奪った巨大な白い鯨・モビー・ディックとの壮絶な死闘を描いた、作家ハーマン・メルヴィルによるアメリカを代表する文学作品、「白鯨」。何度か商業作として映画化され、なかでも名匠ジョン・ヒューストン監督による『白鯨』が決定版になっているが、この物語の基となったのは、1821年、アメリカの捕鯨帆船・エセックス号が、怒ったマッコウクジラに襲撃されるという、実際の海難事故だった。ロン・ハワード監督による今回の海洋映画『白鯨との闘い』は、その衝撃的なエセックス号海難事故の真相を、現存する資料から可能な限り読み解いて書かれた、ノンフィクション書籍を原作としている。

 名作文学「白鯨」のクライマックスは、実際の事故同様に、クジラによる攻撃で捕鯨帆船が大破する模様が描かれるが、このノンフィクションを読むと、現実の事故は、むしろこの後の展開がさらに壮絶であったことが分かる。映画『白鯨との闘い』は、この過酷な事故の顛末を映像化し、海やクジラ漁のおそろしさ、そして人間の強欲さと弱さを、娯楽作品という枠の中で厳しく映し出すことに成功している。ここでは、本作『白鯨との闘い』の背景や特徴的な演出、そして、小説とも事実とも異なる、映画独自の視点で描き出された、新たなテーマに迫っていきたい。

狂気と執念の異端文学「白鯨」の原点

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(c)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC ALL RIGHTS RESERVED.

 ハーマン・メルヴィルの「白鯨」は、名作文学としてその名を知られているが、実際に読んでみると、娯楽的な物語を扱いながらも、意外なほど読みにくい。そのヤバさは、巻頭から様々な文献などから引用された、80もの序文(エピグラフ)が記されていることから、既に理解できる。そのシンプルな筋とは裏腹に、宗教的、神話的モチーフが随所に見られ、「鯨学」といわれるクジラ漁の知識がふんだんに盛り込まれることで、作品はおそろしく膨大な文字数に膨れ上がっている。

 「白鯨」は過剰にアンバランスで、いわゆる「よく出来た」小説ではない。出版当時は評価されず、メルヴィルは本格的な作家活動を断念することになる。だが、だからこそ「白鯨」の若さに任せた異常な作風は、作中のエイハブ船長の執念にシンクロし、読者を深遠な海の狂気に引きずり込む力を獲得している。「白鯨」は 、若い作者が「文学」という巨大なクジラの背に必死に捕まり、勇気と体力を振り絞ってモノにした傑作である。その真価が広く認められるまでには、メルヴィルの死後30年が経過するまで待たれることになる。

 本作『白鯨との闘い』は、ベン・ウィショーが演じる、若きハーマン・メルヴィルが、大文学者に並ぶ傑作を書き上げるため、生き残ったエセックス号の船員に取材する場面から始まる。「白鯨」の原点となる、海難事故を描く本編は、老いた元船員の回想というかたちで語られていくが、実際にはメルヴィルは、他船の乗員との伝聞や、本作でクリス・ヘムズワースが演じた、オーウェン・チェイス一等航海士による、エセックス号海難事故の実録本を執筆の手がかりとしており、ここでは、原作となったノンフィクションが伝える史実が改変されていることが分かる。映画では他にも、エセックス号のポラード船長をより傲慢に、チェイス一等航海士をより誠実な男として誇張することで、分かりやすい対立関係を作り出し、娯楽性を高めている。つまり、本作はあくまでも実話を基にした娯楽作品として作られているのだ。このことは、本作に登場するメルヴィルが、取材した内容をそのまま克明に書くことをせず、あくまで創作として「白鯨」を書いたという、映画内の描写に重ね合わされている。

「白鯨」の熱に呼応する、ロン・ハワード監督の過剰演出

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(c)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC ALL RIGHTS RESERVED.

 ロン・ハワード監督が本作の監督に相応しいことは、捕鯨帆船・エセックス号が海原に出て、船長と一等航海士の確執の問題が、嵐という気象条件によって一気に表面化する最初の大スペクタクルシーンで、すぐに証明される。これは、ハワード監督による劇場作品としての前作、『ラッシュ/プライドと友情』の、彼の得意なモチーフである、男の精神的な闘いを、物語と映像両面によって表現するという、映画監督としての演出的テーマを継続するものである。

 実際の帆船を利用した海上での実写撮影はもちろん、原寸大の船のセットを大揺れさせる装置の利用、また実際に船を炎上させる危険なシーンの鬼気迫る美しさ、そして、『スター・ウォーズ』の巨大宇宙戦艦を想起させる巨大クジラの威容や、大迫力のアタックなど、実写とVFXを組み合わせた映像による前半の見せ場全てに、尋常でない豪快な熱気を感じるのも、特異な撮影と編集によるハワード演出の特性からくるものだ。同じ監督作である『ダ・ヴィンチ・コード』などのようなミステリー作品においては、幾分過剰だった映像の大仰さも、ここではピッタリとはまっているといえるだろう。

 本作は、なんといっても画面からはみ出してくるような、ハワード演出の「アツさ」がマッチしている。というのは、この熱気が、かつてハーマン・メルヴィルが文学にかけた狂熱的な姿勢とシンクロしているように見えるからである。その意味においては、決定版である映画作品『白鯨』を撮り上げた、理知的で論理的なジョン・ヒューストン監督よりも、本作は、野蛮な作家メルヴィルの性質に近いかもしれない。複数の小型デジタルカメラを使い分け、接写と遠景を織り交ぜる撮影も、「野獣的」な迫真性を高め効果的だ。だが、このような大小の視点を利用した演出法は、じつはジョン・ヒューストン監督の『白鯨』のなかで、当時の技術を駆使するかたちで、既に用いられており、これはその現代的な発展型といえるだろう。港町に降る雨に濡れる窓の表現などの引用もあわせ、本作は、ヒューストン監督作へのリスペクトも数多く見られるのだ。

「人間の罪」を実感させる血みどろのショー

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(c)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC ALL RIGHTS RESERVED.

 派手なスペクタクルが連発する前半だが、本作では、巨大クジラの攻撃によって、ボートでの長期間の漂流を余儀なくされ、船員が徐々に弱っていくという、比較的地味な映像が続く後半こそが、むしろ本番だと言っていいだろう。数十日に及ぶ漂流生活は、物資の困窮をきわめ、船員たちは飢えと渇きによって「死」に直面する。肉体と精神が限界に達すると、船員たちには「ある考え」が浮かんでくる。それは、仲間の船員を自分の食糧にしようというおそろしい思考である。もちろんそれは、当時の彼らの宗教上の教義でも、社会的モラルにおいても、容認できるものではない。しかし、欲望と死への恐怖が、絶えず彼らをじりじりと誘惑し苦しめていく。このシフト・チェンジされた陰惨な後半部は、極限の心理的葛藤こそがスペクタルとなっているのだ。

 19世紀を中心に、クジラの体からとることのできる「鯨油」は、燃料や工業用潤滑油などに利用され重宝されてきた。上質な油の獲得を目的としたクジラ漁は一大産業として発展し、各国の港から捕鯨船が出航した。本作で描かれる実在した捕鯨船・エセックス号は、アメリカのナンタケット島から出航している。捕鯨が主要産業であるナンタケットの港町は排他的であり、捕鯨船員が最も尊敬され、歴史ある島民の一族が重用されるといったような、特殊な土地柄であったことは、本作でも描かれたとおりだ。捕鯨は長期間に及ぶため、毎年多くの男たちは海の藻屑と消え、ナンタケットには未亡人が絶えない。

 船員たちは、海上でクジラを発見すると、数人乗りのホエール・ボートに乗り込み、クジラの体に銛(もり)を突き立て、銛とロープでつながったボートを牽引させる。この、双方命がけの「ナンタケットのそり遊び」によって弱ったクジラの急所に刃物を刺し込むと、仕留められたクジラは、潮を吹くための噴気孔から血を噴出し、海面を大量の血液で真っ赤に染めて絶命する。船員たちは獲物の死体を解体し、数日をかけて、ぶ厚い脂肪層から切り分けられた脂を精製する。ある若い船員は、凄まじい異臭を放つ頭部に潜入し、クジラの脂肪のなかでも貴重な「鯨蝋」を残らずかき出すという、おそろしく生々しい血みどろの作業をさせられることになる。

 この、勇壮ともいえ残酷ともいえる死のショーは、捕鯨をすることの「本質」を、観客に突きつけてくる。それは、人間は生きるために、また快適な生活を送るために、常に「他者」を犠牲にし消費しているという、シンプルな事実である。捕鯨船員のように、死の危険を冒し、自らの手を血に汚す者だけが、ヒューマニズムを越えた地点にある、真実の生と死の実感を得ることができるのだ。それはまた皮肉なことに、本作の「食人」への誘惑という行為にも関係してくる。

 本作のラストでは、新たな資源としての「石油」の登場が言及され、この陰惨な物語への、一筋の希望を示している。もう人類は、鯨油を得るためだけに、クジラを大量に殺戮しなくても良いし、海難事故で大勢の犠牲を出さなくても済むのだ。だが、現代の人間である我々は、石油の利権をめぐった紛争によって、人間同士が争い殺し合う未来を既に知っている。継続される人間の罪、そして自然や、対立する相手を「征服できる」という、本作のポラード船長のような狂気による誤算が新たな影を生むことも、作品は暗示する。

 近年のロン・ハワード監督が描く、価値観の対立構造は、時代がかった「文学的」なテーマを志向しているといえるだろう。本作でハワード監督は、「生きる」ということの縮図を、「白鯨」同様に、大海原にさまよう人々の人間模様によって表現し、人間の飽くなき強欲さや無力さを、きわめて豪快な演出で描ききった。その蛮勇的な作家性は、やはり「文学」というクジラを仕留めようとしたメルヴィルへのシンパシーにあふれているように感じられるのである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『白鯨との闘い』
2016年1月16日(土)新宿ピカデリーほか全国ロードショー
監督:ロン・ハワード
脚本:チャールズ・レビット
製作:ポーラ・ワインスタイン、ジョー・ロス、ウィリアム・ウォード
出演:クリス・ヘムズワース、ベンジャミン・ウォーカー、キリアン・マーフィー、ベン・ウィショー、ブレンダン・グリーソン
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC ALL RIGHTS RESERVED.
公式サイト:hakugeimovie.jp

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