荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振

 1982年、日本では映画『ブレードランナー』が公開された。SF作家フィリップ・K・ディックの原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きに、当時から遥か未来の2019年のロサンゼルスが描かれたが、それは有色人種(アジア人やメキシコ人)が降り続ける雨と巨大なネオンサインの間を群れになって動く暗い風景だった。『ブレードランナー』は今でこそ知る人が多いが、リドリー・スコットの長編監督作品としてふたつめで、当時はカルト映画とされていた。しかし、この映画を見た人々はその歌舞伎町の夜を思い出させる美術と雰囲気にのめり込んだ。1980年代の日本のサブカルチャーのディストピア指向は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』が既に設定していたが、『ブレードランナー』の影響は無視出来ない。

 藤原ヒロシと高木完、のちのTiny Punksの2人組もこの映画を見て影響を受けたことを記事にしているが、当時ニューヨークでこの映画を見た中西俊夫も忘れらなかった。そして、原爆。映画『ゴジラ』の第1作目は言うまでもなく、原爆の原体験が落とす暗い影は、バブル経済によってもたらされた誇大妄想的な傾向の裏返しのメランコリアとしてつきまとった。1982年のニューヨークでAfrika BambaataaのDJとRock Steady Crewのブレイクダンスを体験した中西が自身の新しいユニットに書いた曲は「Final News」ーー手塚治虫の短編集『空気の底』(大都社)に収められた「猫の血」に刺激を受けた“終末SF”テーマのものだった。

 同じ年、葛井克亮という青年はニューヨークで今まで見たことのない映画に出会っていた。

「私とフランはニューヨークでアメリカのクルーが日本に来たときや、日本のクルーがニューヨークに来たときにコーディネートする仕事をしていました。そのときに、関係が深かった映画配給会社・大映の作品で、アメリカの配給先を決める手伝いをした『雪華葬刺し』(高林陽一監督)がニューヨークの「New Directors/New Films Festival」で上映されて、57丁目の劇場に観に行ったんです。その映画祭の会場で、普通の映画ファンでないお客さん、42丁目に来るブルース・リーの映画を観にくるような黒人がドッとやってきたので、何だろう?と思ったら、それが『ワイルド・スタイル』で、フランとこの作品を観ることにしました。そうしたら、1982年当時珍しい、強烈な熱気と見たことのないカルチャーに驚きました。まだヒップホップという言葉もなかった時代です」

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

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