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初の評伝『ソウル・フラワー・ユニオン : 解き放つ唄の轍』インタビュー(後編)

「俺の根本にあるのは『歌をうたいたい』ということ」SFU中川敬が自身の表現原理を語る

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ソウル・フラワー・ユニオン
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20140217-soul-01-thumb.jpg2013年、『踊れ! 踊らされる前に』リリース時のソウル・フラワー・ユニオン。

 フォトグラファー/音楽ジャーナリストの石田昌隆氏によるソウル・フラワー・ユニオン初の評伝『ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍』(河出書房新社)の刊行にともない、同グループのリーダー・中川敬にこれまでのバンドの軌跡を訊くインタビュー後編。前編【中川敬が振り返る、初期ソウル・フラワー・ユニオンの精神】では、初期ソウル・フラワー・ユニオンの精神性や、当時の音楽シーンについて語ってもらった。後編では、名曲「満月の夕」の誕生秘話から、震災後に改めて見つめ直した自身のスタンスまで語る。インタビュアーは音楽評論家の小野島大氏。(編集部)

自分の内面は言葉の端々やメロディの端々に常に潜んでる

――石田さんはこの本で、音楽家個人の内面から出てきた表現よりも、音楽家を媒介にして現実の断片が吹き出してくるようなものに惹かれる、それがソウル・フラワーの音楽なんだと語っています。それがこの本の核心だと思うんですが、中川くんは音楽家の自我を投影したような自己表現、アートとしてのロックと、現実との関わりの中で出てくる、現実を投影したものの、どちらに惹かれますか。

中川:いやいや、どっちっていうのはないな~。やっぱり自己表現としてのロックをやってきてるし、これからもやっていくやろうね。俺らは、民謡まで含むカヴァー曲をたくさんやるけれど、そのカヴァー曲の選択も含めて表現やと思うしね。例えば、「安里屋ユンタ」や「アリラン」――沖縄の民謡や朝鮮半島の民謡を歌ったりするときも、チョイスをしているのは日本人でありヤマトンチューである自分。それらの唄が俺の口から出た瞬間、それは既に俺の表現やという。もちろん石田さんの言うことはすごくよくわかるし、音楽は人類普遍のところにあって、長い歴史があるわけやし、その音楽の命脈の大河の中に俺もおるのやなという感覚でやってるところもある。ただ“ロック芸”をやってるという観点から言えば、自分の表現以外の何ものでもない。自分の内面は言葉の端々やメロディの端々に常に潜んでる。

――自分の曲をやる時とカヴァーをやる時の気持ちは変わらないんですか。

中川:自分の曲を作ってる時は、子供が工作するように、ワクワクしながらやってるよね。それこそパンチラインのひとつでもできた日には、”よっしゃーっ!”(笑)。カヴァーではそういう気持ちは味わえないしね。ただライヴでやってる時は、オリジナルとかカヴァーとか、そういうことは意識からは飛んじゃってるよね。モノノケ・サミットで人の曲ばかり歌うようになったからね。そういう体質になっちゃったかな。

――被災地では自分のオリジナルよりも、誰もが知っているような民謡や昔の歌謡曲を求められるから。曲を作るとき、現実の動きや社会や時代の流れを切り離して、自分の内面から出てくるものだけで書きたいという気持ちは……。

中川:いやいや、“代表曲”とされてない、アルバムの中の曲に、そういう曲が沢山あるよ。あんまりそういう曲は注目されない(笑)。っていうか、どんな曲であれ、自分の内面は反映されてるよ。特に歌詞はね。ベスト盤とかを作るときに、20年ぶりぐらいに自分の昔の曲を聞くと、自分のその頃の心の動きを思い出したりする。

――そういう個人の内面から出てきた表現が普遍的なものとなって、社会や時代を象徴したりする。たとえば「満月の夕」(1995)はそうした楽曲ですね。あの曲がなぜ人々の心を打つのか、という問いかけはこの本の中でも何度も繰り返されてるけど。

中川:作った当時は“名曲”やなんて意識はまったくなくて。97年ぐらいにNHKのディレクターが神戸に入った時に、子どもたちがラジオから流れてきた「満月の夕」を指して、”この曲知ってるか、おっちゃん、これ、俺らの曲やで”って言ったらしい。それを後日そのディレクターから聞いて”やったー!”って思ったけどね。徐々に「もしかしていい曲なのかもしれない」と思い始めた(笑)。

20140217-soul-02-thumb.jpg2000年8月、横浜寿町フリーコンサートでのモノノケ・サミット。「満月の夕」でダイブする人が出現

――山口洋(ヒートウェイヴ)と共作した時のいきさつは本に書かれてますが、短時間で書き上げた曲なんですよね。

中川:山口とAメロの導入部分を作ったのが95年の2月13日、それを元に、2月15日に一気に作った。歌詞に至っては10分ぐらいで書き上げた。日にちが出てくるのがすごいよね(笑)。2月10日に始めての被災地出前ライヴを始めてるから、その辺の流れは克明に覚えてるんよね。あのころは年に1枚アルバムを出してて、曲を書く日常がずっと続いてた。ツアー先のホテルでも書いたりしてたからね。被災地に入り始めて強烈な毎日が始まっても、日常の一環で曲を書いてた。日記を書くように曲を書くっていう感覚が、今よりも強かった。

――じゃあ数ある楽曲のひとつという以上の意識はなかったけど、ライヴや周囲の反応を見て、だんだん特別な曲だって……

中川:わかりはじめたっていう感じかな。

――じゃあ、なあぜそんなに特別な曲になったんだと思います?

中川:うーん……・まずは、いいカヴァーがたくさんあったからと違うかな?(笑)。プロ・アマ問わず、いろんな唄い手があらゆる場所で歌ってくれて。阪神淡路大震災に限らず、色んな現場で、寄せ場で、ライヴハウスで…。東北の震災のあとも、ほんとにいろんなところで歌ってくれてるから。音源化されてなくても、そういう色んな人たちが歌ってくれた素晴らしいヴァージョンが無数にあって。それは当然のことながら、いろんなシチュエーションで。至るところでいろんな人たちが愛して、歌ってくれてる。それを聴いた人たちがまた広めてくれる。この曲に、無数の思いが重なっていく。その繰り返しで浸透していったんやと思うな。東ティモールであの曲を歌った時も(02年5月)、簡単な通訳はつけたけど、歌詞の内容まで逐一説明したわけじゃない。でも1年後に広田奈津子(東ティモールの音楽ドキュメンタリー映画『カンタ!ティモール』監督)が東ティモールに行ったら、子供たちがずーっとあのメロディを歌ってるって言ってた。歌詞だけじゃなくてメロディも強いんやろうね。無名の人たちの思いが重なり合って、より強い曲になった。

――なるほど。

中川:山口とヤポネシアン・ボールズ・ファウンデーションでツアーした時(2001年)、当初、あいつは「満月の夕」を外したがってたのね。あの時点で震災から6年ぐらいたってて、あいつは、俺と中川でツアーやって「満月の夕」をやるのは予定調和過ぎる、というわけ。

――ああ、すごくわかる。

中川:それで飲みながら結構喧々諤々とやったんやけど、俺は、とにかく絶対やるべきやと。自分がやりたいかやりたないかとか、そんなのはどうでもええねんと。あの曲は絶対にやるべきやと俺は主張した。あの曲を聴きたい人が日本中にいるのに、なんで俺とお前がバンド組んでツアーやるのに「満月の夕」をやらへんのや、ありえん。

      

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