『QWOP』とゲーム実況の衝撃 ベネット・フォディの足跡から辿る、激動のFLASHゲーム時代

『QWOP』とゲーム実況の衝撃

“不服従”であることが、ゲームをゲームたらしめる

TIGSのフォーラムのスレッド「いまなに作ってる?」に投稿された開発中のスクリーンショット

 『QWOP』。この奇天烈なタイトルは、ゲーム中に使用される四つのキーボードキーに由来する。ゲームをロードすると、画面上にはいままさに100メートル走トラックへと飛び出さんとするアスリートが現れる。同作は陸上競技のゲームだ。

 インスピレーションの源泉は、フォディが6歳のころに観たロサンゼルス五輪のカール・ルイス、それとコナミの『Track&Field』(1983)。日本では『ハイパーオリンピック』のタイトルで知られるゲームだ。『QWOP』もまた、ウサイン・ボルトが100メートル走を席巻した北京五輪の直後にリリースされた。

 画面上の左上にはキーボードを模した「Q」「W」のアルファベットが浮いており、その下にはTHIGHS(太もも)の文字。対する画面右上には「O」と「P」の文字と、その下にはCALVES(ふくらはぎ)。

 走者の左右の脚部は膝を境に上下に分かれている。つまり、Qは左太もも、Wは右太もも、Oは左ふくらはぎ、Pは右ふくらはぎにそれぞれ対応している。いずれかを押せば、そのキーに対応する脚の部位が動く。プレイヤーは、奇妙に連動している筋肉をなんとか動作させながら、100メートルを全力で駆け抜ける。ちなみに膝より上が地面に接したら失格だ。

 これが、とてつもなくむずかしい。

 元ネタの『ハイパーオリンピック』ではふたつのボタンを交互に連打するだけで走者が駆け、転ぶことはなかった。だが、『QWOP』ではそもそも走行の姿勢を保つだけでも困難を極める。100メートル走の世界記録は9秒58。だが、『QWOP』の公式世界記録は45秒台。熟達のRTA走者ですら現実の子どもよりはるかに遅いタイムしか出せない。

 「どうしてこんな難しいゲームを作ったのか?」という質問に対して、フォディはこう答えている

「別に難しいゲームを作ったとはおもっていません。わたしはコースの半分まで到達することができますが、それよりも『ディフェンダー』、『パックマン』や『ピットフォール』などといった“スコアを競うゲーム”の方が(最終的には)よほど難しい。であるにもかかわらず、あなたが困難を感じるのだとしたら、それはフレーミングの問題ではないでしょうか。あなたは100メートルを走るなんて簡単に違いないとおもいこんでいる」

 「難しいゲームを作ったとはおもっていない」のは、ウソだ。いや、ウソ、とまではいわないまでも、韜晦まじりのレトリックだった、というべきか。なぜなら、彼は開発途中にTIGSフォーラムで「“べらぼう”に難しいゲームになる」と語っていたからだ。

 では、このレトリックから、フォディは何を導かんとしているのか。「昔のゲームのほうがむずかしかったよ。今のゲーマーは甘やかされている」? もちろんその気持ちもないわけではないだろうが、それだけではない。フラストレーションだ。

 フォディはフラストレーションの必要性をよく語る。自分のブログでわざわざ「ゲームにおけるフラストレーションの11分類」なる分析記事まで書いているくらいだ。そこでは、フラストレーションについてこう語っている。

「ゲームデザイナーたちは、『プレイヤーがフラストレーションを感じているならデザインに失敗している』というのを自明のこととして考える。だが実際には、フラストレーションは多くの(すべての?)有名かつ影響力のあるデザインに不可欠な要素である。

 もし『スペースインベーダー』がやり直しを要求しなかったらどうなるだろう? 『Myst』で一度も行き詰まらなかったらどうなるだろう? まったくフラストレーションのないゲームは、摩擦も服従への抵抗(Disobedience)もないゲームであり、完全に従順なゲームはただの“ソフトウェア”にすぎない」

 不服従(Disobedience)は、フォディのゲームを理解する上でキーとなる単語だ。ふたたび、ユールとの対談インタビュー記事をひこう。

「私の重要視する道徳的美学のひとつは、『プレイヤーがゲームの所有者であってはならない』ということです。つまり、プレイヤーがゲームの主人であってはいけないのです。

 ゲーム、あるいはデザイナーと換言してもいいかもしれませんが、少なくともゲームの側がプレイヤーに対してある程度のコントロールや主導権を持っておくべきだと思います。私は不服従(Disobedience)という言葉を好みます。プレイヤーに対して不服従の感覚を持つゲームが大好きなのです。なぜなら、従順なソフトウェアからは遊び心(Playfulness)を感じられないから」

 ソフトウェアはプログラミングの産物であり、プログラムされたとおりにしか動かない。それはあくまで道具であり、簡便で、明瞭で、心地よくあらねばならないーーしかしゲームにおいては、そうした考え方がそもそも間違いなのだ、とフォディは説く。

 彼いわく、「ゲームデザインは芸術」である。

 芸術とは新しい考えと極端な感情を引き起こすことができ、それはオーディエンスの心や感情を拡張する。映画や絵画は人間の持つありとあらゆる感情を総動員させ、それを達成しようとする。しかし、ゲームではソフトウェアとしての本性がそうした方向性を阻害してしまう。

 フォディにとって芸術とは人間性の刻印であり、ソフトウェアに求めるのであれば、そのソフトウェアは「人にとって善くあること」から背を向けねばならない。不服従である、とはそういうことだ。

 そして、不服従であることはさきほどのフォディの「『QWOP』を難しいゲームだとおもうのはフレーミングの問題だ」という発言にもつながる。

 「暗黙のゲームデザイナー(implied designer)」という理論がある。ネレ・ヴァン・デ・モッセラとステファノ・グアレニというゲーム研究者が唱えたもので、「プレイヤーは、ゲームをプレイしながらその経験とゲーム外で得られる情報から『作者』を想像し、ゲーム内にあるすべてについて『作者の意図』を読み取ろうとする」といったものだ。

 たとえば、RPGで長いダンジョンのある一室に全回復できるセーブポイントが置かれていたら、プレイヤーは「この先すぐの部屋にボスがいる」とそれとなく推察する。また、あきらかにバグとおぼしき現象に遭遇した場合、プレイヤーは「本来デザイナーが意図していた形」を想像する。

 これらの事象について、公にいちいち説明をつける開発者もいないだろう。プレイヤーもことさら言い立てたりもしないだろうが、漠然と「デザインの意図」を察する。デ・モッセラとグアレニによると「暗黙のゲームデザイナー」がどのように構築されていくかはプレイヤーの持つ知識や文脈に依存する。

 最初のひとつは、横断的ゲーム知識、「プレイヤーが個人として過去にプレイした複数の他のゲームに関連する」知識だ。要するに、どれだけゲームをプレイして、どれだけゲームリテラシーを蓄えてきたか、ということ。

 もうひとつは同系ゲーム知識。特定のシリーズやジャンル内部の慣習から推測すること。たとえば、JRPGには確立された「お約束」がいくつかあり、そのなかでも「ファイナルファンタジー」シリーズのお約束と「ドラゴンクエスト」のお約束とがそれぞれ存在する。これは作家やスタジオにもいえて、あるプレイヤーが『ダークソウル』をプレイ済みであれば、『Sekiro』をプレイしているあいだに両作に共通するデザインを汲み取れることだろう。

 三つ目はメタ知識。ゲームの外部から得られる知識、つまりは広告、予告編、レビュー、攻略情報、ミームや二次創作などだ。なにも知らない状態でゲームを始めた場合と、そのゲームの実況動画やWikipedia記事などで一通りコンセプトを学んだ状態からプレイを始めるのとでは、ストーリー序盤におけるプレイヤーの受け取り方も変わってくるはずだ。

ジャンルから期待されるフレームをことごとく外してプレイヤーを苛むいじわるなゲームも存在する。“マリオ式”のプラットフォーム・アクションをパロディにしたアイワナこと『I Wanna Be the Guy』は有名な一作

 こうした知識や経験にもとづき、プレイヤーはゲームに対する期待のフレームを作りあげる。一般的な経験から導かれる範疇では、『QWOP』はもっと簡単なゲームになるはずだった。ほとんどあらゆるビデオゲームにおいて、歩行とは方向キーをただ押したりジョイスティックを倒せば実現する。ゲームによってはチュートリアルにすら含まれない、非常に初歩的な操作だ。

 「そもそも一歩も歩けないで終わるゲームが存在するはずはない」。その思い込みが、世界で数十万ものプレイヤーを絶望へと叩きこんだ。そして、そのうちの何人かは再度立ち上がり、トラックを完走しようと試行錯誤と発見を重ね、数メートル刻みで最高到達点を伸ばしていく。その過程にこそ、「遊び心」が宿る。

 ゲームの操作を最も簡単なところからひっくり返すことで、プレイヤーの内部に隠れている「ゲームデザイナー」を取り除き、ただ一個のソフトウェアとして『QWOP』をプレイヤーと向き合わせる。これほど不従順なゲームもないだろう。なにせ、開発者であるフォディ自身ですら『QWOP』をクリアしたことがないのだから。

 しかし、「この難度を乗り越えるべく練達し、上手くなれ(Git Gud)」……フォディはそういいたいのだろうか? 違う。フォディの難易度についての思想は『Getting Over it with Bennett Foddy』でより鮮明に顕れるだろう。ここでは彼の持っているイデオロギーはゲーマー的なマッチョイズムの逆――「Get Bad」(へたくそであれ)であると言い添えるに留めておこう。

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