平野啓一郎×バーチャル美少女ねむが語り合う「分人とメタバース」 2つのキーワードから人類の進化の“その先”に迫る

2025年現在、数百万人が暮らすオンライン仮想空間「メタバース」。ユーザーたちはメタバース内でコミュニケーション、恋愛、経済活動など、思い思いの人生を送っている。
そして、メタバース内では時として、現実世界に生きる人格とは異なる人格で生きる人も現れる。メタバースに生きる“メタバース原住民”である「バーチャル美少女ねむ」も、現実とは切り離された存在として、この世界に生きている。
本特集では、バーチャル美少女ねむが、各種先端分野の有識者との対談を通じて、メタバースとテクノロジーがもたらす人類の進化の“その先”に迫っていく。
第6回のテーマは、「分人主義」。ゲストとして招いたのは、分人主義の提唱者である小説家の平野啓一郎氏だ。平野氏とねむ氏がおこなった公開対談の模様をもとに、近代社会における「個人」と異なる、様々な場面や関係性ごとに人格が使い分けられる「分人」の考え方と、メタバースとの相性の良さを探りつつ、現在の様々な問題を乗り越えるツールとして「分人」を考察していく。(浅田カズラ)
■バーチャル美少女ねむ
メタバース原住民にしてメタバース文化エバンジェリスト。
「バーチャルでなりたい自分になる」をテーマに2017年から美少女アイドルとして活動している自称・世界最古の個人系VTuber(バーチャルYouTuber)。2020年にはNHKのテレビ番組に出演し、お茶の間に「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の衝撃を届けた。ボイスチェンジャーの利用を公言しているにも関わらずオリジナル曲『ココロコスプレ』で歌手デビュー。作家としても活動し、著書に小説『仮想美少女シンギュラリティ』、メタバース解説本『メタバース進化論』(技術評論社) がある。フランス日刊紙「リベラシオン」・朝日新聞・日本経済新聞などインタビュー掲載歴多数。VRの未来を届けるHTC公式の初代「VIVEアンバサダー」にも任命されている。
■平野啓一郎(小説家)
1975年、愛知県蒲郡市生まれ。京都大学法学部卒。在学中の1999年に文芸誌『新潮』に投稿した小説『日蝕』で第120回芥川賞を受賞した。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。主な著書に、小説『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』、『富士山』等、エッセイに『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『三島由紀夫論』等がある。2025年夏、『文学は何の役に立つのか?』と『あなたが政治について語る時』を刊行。
「分人主義」とはなにか――誕生の経緯を紐解く
バーチャル美少女ねむ(以下、ねむ):まず、そもそも「分人主義」とはどのような考え方なのか、その誕生の経緯も含めてお聞かせいただけますか。
平野啓一郎(以下、平野):近代社会は「個人」という概念を基盤に設計されてきました。ここでいう「個人」とは、一人の人間がただ一つの人格を持ち、それを「本当の自分」として社会のあらゆる場面を生きてゆくというモデルです。もちろん、職場と家庭で異なる顔を見せるようなことはありますが、それはあくまで“仮面”を使い分けているに過ぎず、本質的には同じ一人の人間だと捉えられてきました。
しかし、現代の私たちの生き方を見ると、状況や相手ごとに“異なる自分”を生きています。しかも、それらは「本当の自分」と「偽りの自分」といった序列化ができない。どれも「本当の自分」であると認めざるを得ない。そうした観点から、従来の「個人」というモデルとは別の、人間や人間関係の新たな捉え方を模索し始めました。その思索の中で生まれたのが「分人」という概念です。人間を一つに統合された個人としてではなく、場面・関係性ごとに分割できる存在として理解するモデルです。
この考え方は、もともと私が執筆していた小説『ドーン』の中で登場させたアイデアでした。それが次第に小説の枠を超え、私自身の思想として発展してきた。こうして今、ねむさんのような方々に関心を持っていただけているのは、とても嬉しいことです。
ねむ:平野さんの小説で描かれる「分人」は、いくつもの角度から描かれていますよね。自分自身を理解するためのツールとして、一面的ではない複雑な自分を把握するための手段として、さらには他者を理解するための手がかりとして。加えて、インターネット時代における人間社会をどう構築するかを考える上での、社会実験的な概念でもあるように感じます。
私自身も、メタバースで起きている現象を説明するために本を執筆しましたが、その中で「分人主義」という考え方が非常に有効だと思いました。メタバースというテクノロジーが登場したことで、この概念が目に見える形で顕在化している。そう整理することで、一般の人にも理解しやすくなるのではないかと考えています。
平野:私が最初に「分人」という考えに至ったきっかけは、「本当の自分とは何か」という問いの息苦しさでした。
現代社会は、多様性が尊重され、様々な人間が存在し、円滑なコミュニケーションを取ることが大切だと強調されています。同時に「ありのままの自分が素敵だ」とも言われる。しかし、この二つはしばしば矛盾します。自分らしさを強調しすぎると他者とうまくやっていけないし、逆に周囲との関係を優先すれば、自然とそれに応じて人格を生きることになる。それでも「本当の自分らしさ」が求められる。この矛盾に多くの人が苦しんでいるのではないでしょうか。
大学で政治思想史を学ぶ中で、近代社会の形成過程に触れました。封建的な身分制度が解体された後、社会をどう設計し直すかを考えた結果、人は「分けようのない最小単位=個人individual」として捉えられ、制度や法律が築かれていった。確かにそれは制度的にはうまく機能しましたが、実際に“個人”として生きようとすると「どれが本当の自分なのか」と迷う局面が必ず訪れます。極端な話、恋愛でも人は同時に複数の相手を好きになることがあり得る。そのとき「本当の自分はどちらを選ぶのか」と迫られることは、悩ましい問題です。
そうした問題意識から、私は「分人」という単位で人間を捉え直すことを考えました。近代が「個人」を社会の最小単位にしたように、さらに細かい「分人」を単位にすることで、変化し続ける現代社会をもっと柔軟に理解できるのではないか、と。
さらに大きな契機となったのがインターネットの登場です。ネット以前は、友人が自分の知らない場所でどう振る舞っているかを知ることは難しかった。でもSNSが登場すると、別のコミュニティでの友人の顔が可視化されるようになり、私も「同じ人間でも、場によってまったく違う人格を生きている」ことを実感しました。
ネット上の自分と現実の自分は必ずしも連続していなくてもいいし、それぞれが本物として存在できる。この経験こそが「分人」という発想を後押ししたのだと思います。そして、その延長線上に、メタバースでフィジカルな世界とは全く異なる人格を生きられる可能性がある。そう考えると非常によく理解できます。
ねむ:私のように、身体や名前そのものを完全に切り離して活動していると分かりやすいですが、実際には一般の人たちも裏アカウントを持ったり、ゲーム配信用の別アカウントを作ったりして、表の自分とは違う側面を見せていますよね。今やそれは特別なことではなく、誰もが当たり前のようにやっていること。
そういう意味で、分人主義はインターネット以降の時代において「複数の自分をどう作り替え、どう生きていくか」という課題を先取りしていた概念だと思います。

小説執筆と少年時代の経験が、分人主義の種になった
ねむ:私も小説を書いたことがあるので思うのですが、小説家は主人公に自分とは違う人格を与え、その人物になりきって物語を進める作業を、仕事としてこなしますよね。そうした経験から分人主義のアイデアが生まれたのかなと思ったのですが、いかがでしょうか?
平野:可能性はありますね。登場人物がみんな作者の分身だと単調になるので、嫌な人も善人も含めて、自分一人でなりきって書く必要があります。その作業が人格分化を体感するプロセスになっていると思います。
ともすると小説は、登場人物が「いい人」「嫌な人」といった具合に固定化されがちです。でも実際には、人は状況によって快活にもなれば苦しむこともある。その関係性や場面ごとの違いを描くことが、文学に深みを与えると感じます。
もう一つ、大きかった発見は、小説『ドーン』のために取材をしていた時のことです。有人火星探査をテーマにしたこの作品では、6人のクルーが3年間、閉鎖空間で生活する物語が繰り広げられます。NASAやJAXAの専門家に、当時、話を聞いたところ、これは技術的には実現可能だろうと考えられているけれど、精神的にクルーが耐えられるかが最大の問題だとのことでした。
その時に、何故それが難しいのかを考え、人間は一つの人格しか生きられないと耐えられないのでは、と思い至りました。会社での自分、家庭での自分、友人といる自分──複数の人格を切り替えられるバランスがあるから、人は精神的に持ちこたえられるのではないかと。これは分人主義を考える上でのブレイクスルーでした。
ねむ:なるほど。小説のロジックを具現化していく中で、自然に分人の発想に行き着いたんですね。
平野:私自身、小説家になる前の10代の頃は、社交的でありつつ、文学に没頭する“隠れ陰キャ”でもありました。その両方を「本当の自分と表面的な自分」という二元論で捉えていましたが、インターネットの登場で状況が一変しました。ネット空間、文学ファン、小説家、大学の友人──複数の「自分」の並存をより意識するようになりました。
それを「個人」という大きな単位で説明しようとすると、ミリ単位をセンチの定規で測ろうとするようなもどかしさがある。だから、より細かい単位で人格を捉える必要があると考えました。
ねむ:定規の例えはすごく分かります。私もメタバースで活動していると「自分を偽っているんじゃないか」と言われがちですが、そうではなくて「次元が一つ上がった」感覚なんです。三次元世界/現実世界の姿は、もっと高次の世界にある自分の影にすぎず、スポットライトの当て方で別の影が現れる。そんな高次のベクトルの概念をプラスするのが、分人主義だと考えています。
平野:自分の本でも強調していますが、「あっちが本当の自分で、こっちは偽物だ」と他人にジャッジされるのはとても不愉快です。様々な自分を生きていて、どれも本物。その中で、いまどの分人が重要かは自分が判断することで、他人に序列をつけられたり、真偽の判定をされるべきものではないと思います。少なくとも、あなたに言われることじゃないでしょ、と。
ねむ:とはいえ、平野さんはかなりキャラが立っていますし、公の場で喋るときは、世の中に期待されている“平野啓一郎像”で喋ることもあると思うんです。平野さん自身の分人の使い分けはどうされていますか?
平野:あまり作為的にはやっていません。本当は、メディアに出る以上は、矢沢永吉さんの「俺はいいけど、矢沢はどうかな」みたいな、客体化した上で自分の分人を意識した方がいいかな、とは思っていますけどね。でも自然に、人前で話しているときの自分、友人と飲んでいるときの自分、子どもといるときの自分と、自然に切り替わっています。それは意識的な演出ではなく、自然な分化です。
ねむ:それは意外でした。今回コラボに当たっていただいたプロフィール画像はとてもかっこよかったですし、WEBサイトも力を入れてプロデュースしている感じがあったので、あえて「作っている」のかと思いました。
平野:昔はもっと適当で、出版社などに言われるままに撮っていました。でも、仕事でアートディレクターや写真家の方々とも関わる中で、「幾ら何でも、もっとちゃんと撮った方がいい」と助言されることが増えて、意識するようになったんです。
さらに、海外出版も増えてくると、海外の人は僕のことをよく知りませんし、気の抜けたような写真だとナメめられてしまうので(笑)、出版社からも小説家らしい写真が求められたこともあります。そうした経験もあり、日本用と海外用とでポートレートを分けて準備するのも大変なので、以前よりもしっかりとポートレートを撮るようになりました。
ねむ:平野さん自身の分人はリアクティブといいますか、周囲の要請や環境によって形づくられてきた“小説家・平野啓一郎”が大きいんですね。
平野:そうかもしれません。受け身ではないけれど、流れの中で自然に作られてきた感じですね。あと、デビュー当時はTシャツ姿でインタビューを受けることもありましたが、年齢を重ねると、さすがにちょっとどうかなと思うようになりました。50歳になった今は、その意味でも多少は意識していますね。

















