生成AIと明晰夢が生んだ“無意識のクリエイティブ” 真鍋大度×チャールズ・リンゼイが語り合う、『Sora』と人間の可能性

『Sora』の魅力は「予測できない結果」が生まれる面白さと「トライ&エラー」の容易さ
また、真鍋氏は実験的な試みとして、柴犬が自身のしっぽを追いかけて竜巻になるという動画を生成。この経験から『Sora』の魅力として、予測できない結果が生まれる面白さと、トライ&エラーの容易さを指摘する。
その他に既存の動画を読み込み、その続きを作る「ビデオtoビデオ機能」を使用した実験や、生成された映像からインスピレーションを得て音楽を制作する試みも行なったという真鍋氏。その中で特に可能性を感じたのは「ブレンド機能」だという。真鍋氏は「2つの動画が単純に合成されるのではなく、プロンプトや動画のコンテキストが反映されて合成されるため、予測不可能なものが出てくるところが面白い。もう少し慣れてきたら作品に使える可能性がある」と、この機能に最も期待を寄せていることを明かした。
また、参加者とのQ&Aでは、『Sora』の活用法から作品の哲学的背景まで、幅広い議論が展開された。最初に取り上げられたのは、プロンプトの扱いについて。真鍋氏が「プロンプトは人に教えずに隠すべきものなのか」と問いかけたのに対し、リンゼイ氏は特に秘密にする必要はないと回答。その上であまり長いプロンプトを入力したとしても、詳細までは生成されないため、短いプロンプトを使用していると述べた。
興味深いのは、リンゼイ氏の創作プロセスと意識の関係性だ。真鍋氏が「ドラッグを使っているような映像」と表現した作風について、リンゼイ氏は先述した明晰夢を見ることを絡めて、次のように述べた。
「明晰夢というのは夢を見ながら自分が夢を見ているということを意識している状態だ。この夢の世界は非常にパワフルなものであり、そこで動いているものを可視化できるのが『Sora』だと思う。ある意味では、『Sora』を使って思考の旅をしているようなものなのかもしれない」(リンゼイ氏)
さらにリンゼイ氏の個展のタイトルには、禅の概念である「初心」の思想や日本の公共交通機関でよく耳にする「忘れ物をしないでください」という案内を逆から捉えた発想が込められている。これによりリンゼイ氏は、既存のナラティブを全て忘れて新たに生きるという思いを表現したという。
また、パーキングメーターに精神が宿るという着想について、参加者から「非常に日本的だ」という指摘があった。これに対しリンゼイ氏は、日本の文化や歴史への愛着を語りつつ、その考えが神道的であり、インドネシアなどのアニミズムにも通じると説明した。次に「自分たちの脳自体がプロンプトを受けてプログラムされているのではないか」という問いかけに対し、リンゼイ氏はAIが持つ哲学的・心理的な示唆の重要性を指摘。「心とは何か」という根源的な問いにAIが新たな視座を提供する可能性を示唆した。
この答えからは、リンゼイ氏がAIを単なるツールとしてではなく、人間の意識や精神性を考察するための媒体として捉える視点が浮かび上がってきた。
今回のトークセッションを通じて見えてきたのは、生成AIに対するアーティストたちの柔軟な姿勢だ。一般的な懸念として語られる「アーティストがAIに取って代わられる」という議論とは異なり、彼らは生成AIを自身のクリエイティブを拡張するツールとして捉えている。現状、多くの生成AIは学習ソースの権利問題や安全性など法的な面や倫理面での課題が指摘されているほか、生成される作品のクオリティにも改善の余地がある。しかし、アーティストたちはそれらの制約も含めて、いかにAIを表現手段として昇華させるかを模索している。
この視点に立てば、AIがアーティストの創造性を脅かすという懸念は、むしろ我々のような非アーティストによる“老婆心”なのかもしれない。今後、アーティストとAIツールの創造的な関係性が深まることで、人間の想像力がより豊かな形で視覚化されていく可能性が広がっている。それが私たちの社会や文化にどのような影響をもたらすのか、引き続き注目していく必要があるだろう。

























