FM音源をめぐる関係者の回想 コンピューター音楽の民主化・ヤマハ『DX7』開発秘話

ヤマハ『DX7』開発秘話

『DX7』は“コンピューターミュージックの民主化”をもたらした?

(手前から)DX7、DX7 II FD、DX5、DX1

 そしてジョン博士をして「約100人の才能のあるエンジニアが8年にわたって取り組んだ成果であり、コンピューターミュージックの民主化」と言わしめたのが、80年代の名機『DX7』である。「どんな音でも出せる」というコンセプトで1983年に発売された。

 開発リーダーだった西元哲夫氏は、学生時代に大阪万博でヤマハの自動演奏オルガンを見たことがきっかけで入社。好きなプログレのキーボーディストたちの使用機材にヤマハの名前がないことから「彼らに自分のデジタル楽器を使わせたい」と思い、楽器開発に邁進したという。

 『DX1』の試作機は、1982年に米アトランタで行われた『NAMM Show』でお披露目された。TOTOのデヴィッド・ペイチやジェフ・ポーカロら著名ミュージシャンからも大反響で「これは絶対売れる」という確信のもと、大胆な3モデル同時開発・同時発売に踏み切った。ナンバリングが1から順番でなく「1、5、7……」なのは「奇数が好き」というプログレファンならではの理由からだそうだ。

西元哲夫氏

 この開発とデザインの裏にあったのは当時の技術革新だった。書き換え可能な不揮発性メモリ「EEPROM」や液晶が登場し、開発の途中で「新しい技術を全部取り込もう」という話になったという。さらに完成間近になって当時最新鋭の規格・MIDIが登場すると、すぐに採用。初期モデル以外の全モデルに実装した。当時の日本の技術が結集されて生まれた完全デジタル楽器、それが『DX7』だった。

 とはいえ、今や伝説の楽器といえども当時のヤマハの稼ぎ頭はエレクトーンで、ライトミュージック部門の予算はかなり少なかったという。そのため、少しでも安いチップを使うなど、涙ぐましい企業努力をしたそうだ。こうした努力の末、『DX7』は大ヒット商品となり、ヤマハシンセサイザーの事業規模の拡大に貢献。現在のデジタルシンセサイザー事業の礎を築いた。先人のチャレンジは立派な事業に成長したのである。

技術者とミュージシャンの“せめぎ合い”から生まれた、80年代のサウンド

ジョン・チョウニング博士

 講演終盤には「『DX7』はミュージシャンに親切でない作りでもあった」という向谷氏からの鋭い投げかけもあった。これはアナログシンセの考え方と違う「アルゴリズム」や「オペレーター」という考えに、当時のプレイヤーが悩まされたことを指している。

 さらに彼が重ねた「技術者の皆さんが可能性を提供してくれた。でもミュージシャンも頑張った。だから80年代の音楽が花開いた。今は、そういう音楽作りのせめぎ合いが少ない」という言葉には一考の価値があるだろう。

 ヤマハと出会ってから何度も本社に足を運び、エンジニアたちとアイデアを交換しあったというジョン博士は「ヤマハのエンジニアたちは仕事に熱心で、働きながら感動してくれるんです。その姿に自分も感動した。ヤマハにはお礼を言いたい」と話す。彼自身も、日本で楽しむ食事はリンゴや旅館の味噌汁など、質素だった。それよりもエンジニアたちとの仕事に熱中したのだった。

 研究者と技術者が早急な利益よりも「音作り」という点で、心を通じ合わせるコラボレーションを果たしたという点でも「FM技術」の意義は大きい。「働き方改革」という言葉がない当時、100時間も残業する社員もいたというが、彼らは激務ゆえに残業したのではなく、探求したいものがあるというクリエイター然とした考えで自主的に労働したのだとか。その結果、今のヤマハシンセサイザーやFM音源の豊穣がある。

 『DX7』によるコンピューターミュージックの民主化以後、1994年に特許が切れてから今に至るまで、他社から多くのFM音源を搭載した機材が発売された。その音色に我々は当たり前のように親しんでいるが、原点に研究者とエンジニアたち、そしてプレイヤーたちの汗と涙と創造が滲んでいることを忘れずにいたいと思う。

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