『エルデンリング』DLCの物語が投げかける、“巨大な信仰=権力”への疑念
『ELDEN RING』のDLCとなる『SHADOW OF THE ERDTREE』(以下、『SOTE』)が発売されてから2ヶ月以上が経った。同作では、本編で何度か言及されつつも、実際にその姿を見ることはなかった「ミケラ」という登場人物を中心とした物語が展開され、ゲームとしてのボリュームだけではなく、ストーリーの面においても本編を補足する内容に仕上がっている。
以前、筆者は本編の物語について「絶対的な存在は王座という「権力」ではなく、“黄金律”という「信仰」にある」と書いたが、それは『SOTE』においても同様だ。今回は、『SOTE』の物語について掘り下げ、同作がDLCという手段を使って、何を補足しようとしたのかについて迫っていきたいと思う。当然ながらネタバレ要素を多く含むため、現在プレイ中の方や、これからプレイしようと思っている方は注意してほしい。また、過去の「ソウル」シリーズと同様に、『SOTE』もまた、その物語は極めて断片的な情報によって語られており、あくまで本稿はその断片をつなぎ合わせて導き出した考察を多く含んだものとなっている。そのため、本稿を絶対的なものとして捉えるのではなく、あくまで物語を考察するためのアイディアのようなものとして扱っていただけると幸いだ。
「影の地」と角人≒黄金律(信仰、神)に見捨てられた世界/人々を軸とした物語
『SOTE』の舞台となるのは、「狭間の地」を舞台とした本編では行くことのなかった、「影の地」という世界である。女王マリカと黄金樹による黄金律が地域全体を支配していた狭間の地に対して、影の地は黄金律に見捨てられた地域であり、開始地点となる「墓地平原」の重苦しい雰囲気が象徴するように、おおむねどの場所を訪れても重苦しく、混沌とした印象を受ける。
また、『SOTE』における重要人物の一人である「角人」は、影の地の先住民族であった角人の戦士であり、この民族は、マリカが黄金律による支配を絶対的なものとするために起こした戦争に敗れ、虐殺された過去を持つ(序盤のダンジョン「塔の街、ベルラート」は角人たちの住む都市だったが、マリカの命によってメスメル軍に侵攻され、陥落した)。
ミケラの目的は、この影の地を巡り、自らが新たな神となり、新たな律を広めることにある。ミケラは(本編における多くのデミゴッドと同様に)黄金律を見限った人物の一人であり、黄金律の支配を止めるため、すべてを捨てる覚悟で行動を起こしたのだ。「針の騎士、レダ」や「赤獅子、フレイヤ」のような重要人物もまた、ミケラに忠誠を誓っており、その旅路を追い続けている。
このように、『SOTE』では徹底して、黄金律という信仰から除外され、弾圧された人々と、ミケラを中心とした、その支配に抗おうとする者たちの物語が描かれており、(基本的には)黄金律側の視点で描かれた本編と明確に対を成している。まさに、「SHADOW OF THE ERDTREE≒黄金樹に隠された闇」というわけだ。もちろん、本編においてもラニやシャブリリ、糞喰いといった新たな律を求めるNPCとの交流や、かつての侵略の跡を通して、その片鱗を知ることができるが、DLCではその方向をより強く押し進めた形となっている。この世界において、黄金律とは人々から自由と平和を奪った忌まわしきものであり、その根源となる「大いなる意志」の元に行動する主人公(「褪せ人」)もまた、災厄をもたらす侵略者である。
一般的にストーリーDLCと言えば、ゲームをもっと楽しみたいというプレイヤーのための番外編的な位置付け(『ウィッチャー3 ワイルドハント - 血塗られた美酒』など)や、本編では十分に描かれなかった部分を補完する役割を担うもの(『The Last of Us - Left Behind』など)のどちらかになるが、フロム・ソフトウェアがこれまでにリリースしてきたストーリーDLCの多くは後者であり、今回の『SOTE』もまさにその系譜と言える。また、本編において他のデミゴッドと比較して明らかに情報量が限られていたミケラという存在に焦点を当てていることを踏まえると、こうした構図は意図的なものだったのだろう。結果として、『SOTE』はそれ自体が『ELDEN RING』に対する副読本のような、過去のDLC以上にその位置付けが分かりやすい存在となっている。
フロム・ソフトウェア自身も、この物語を単なるサブクエストとしてではなく、ひとつの作品として形にする必要があると考えていたのではないだろうか。実のところ、本編において、ほとんどのプレイヤーはとにかく目の前のダンジョンやボスを攻略することに集中し、物語自体はあくまでフレーバーとして楽しんでいることだろう。それはこれまでの「ソウル」シリーズにおいても同様であり、ある意味では「大いなる意志」に言われるがままにエルデの王を目指す主人公の姿と重なるものだ。もちろん、『SOTE』においても同様に、とりあえず目の前のダンジョンやボスを攻略し続けていれば、最終的にはマリカの試みを食い止めるために「大いなる意志」の目的は果たされる。だが、その過程の多くは黄金律がもたらした被害をこの目で確かめる旅路となるため、否が応でもその「負の側面」を思い知ることになる。
無邪気な過激思想を持つミケラなどの存在を通して問いかける、信仰への疑念
さて、このように書くと、いわば黄金律を体制側として、ミケラは弱者に寄り添い、体制に立ち向かうためのヒーローのような存在のように捉えることができるかもしれないが、そうした一面的な見方をも拒むのが『SOTE』の描く物語のもうひとつの特徴であり、最も興味深いポイントである。
ミケラという存在を語るうえで避けては通れないのが、「魅了」だ。これは『SOTE』のラスボスである「約束の王、ラダーン」との戦闘中にミケラ自身から抱擁(という名の攻撃)を受けた際に付与される状態異常であり、2度の魅了を受けると即死する性質を持っている。ミケラを支持する「針の騎士、レダ」のような人物たちは一様にこの魅了を受けており、物語中には「ミケラの大ルーン」が壊れ、その魅了が解かれることによって、彼女たちは本来の思考を取り戻すという場面が用意されている。つまり、この「魅了」は字面だけならかわいらしく感じられるかもしれないが、実情としては洗脳に近い。
実際、ミケラの同志の一人だった「老兵、アンスバッハ」は、本来はミケラに敵対していたはずの人物である。彼はかつての主君である「血の君主、モーグ」に忠誠を誓っており、そのモーグがミケラに魅了されてしまったことをきっかけに、ミケラに挑むことに決めたのだ。モーグといえば、本編ではミケラに心酔する人物として描かれていたのが印象深いが、実はその時点で彼自身がミケラに洗脳されてしまっていたのである。
つまり、一見すると弱者に寄り添い、多くの支持者とともに新たな世界を目指そうとするミケラの実態は、自らの思想に抗うものを洗脳し、すべての人々が等しく自身に魅了された世界を新たに築こうとするという、極めて過激な思想の持ち主である。ただし、本人に悪気があるわけではない。ミケラは永遠の幼さを持って生まれており、幼い思考のまま、純粋な善意の元でそれを続けているのである(アンスバッハはそれこそがミケラの恐ろしさであると語る)。まったく異なるメディアの作品だが、自身が信じる正義のもとに、自らの圧倒的な力でもって人々を洗脳し、強制的な平和を築こうとするミケラは、どこか映画『ONE PIECE FILM RED』に登場するウタに近いところがあるようにも感じられる(もっとも、ミケラの方がよっぽど幼いのだが)。
すなわち、『SOTE』におけるミケラという存在は、本編における黄金律という絶対的な信仰への疑念をもたらすと同時に、新たなる信仰に共感を抱いたプレイヤーに対しても、「本当にそれは正しいのか?」というさらに別の疑念を与えるものである。
「信仰に対する疑念」は、『SOTE』における黄金律以外の部分においても共通して描かれているものであり、全体を貫くテーマのひとつと言っても良い。たとえば、前述の通り、かつてマリカ主導のもとに虐殺された角人たちは、その戦いにおいては間違いなく被害者だが、一方では「ボニ村」や「ベルラートの牢獄」から分かるように、罪人たちを無実の巫女と一緒に「中身肉」として切り刻んで壺に入れ、「壺人」たちを生み出すという凄惨な文化を持っていた。マリカ自身がかつては巫女の一人であったことを踏まえると、角人たちを虐殺したのは、単に黄金律を広めるだけではなく、復讐の意図も含まれていたのではないかと推測することができる。
また、『SOTE』を象徴するボスの一人である「串刺し公、メスメル」はマリカの息子であり、かつてはマリカの命じるままに角人たちの虐殺を率いていた存在だ。だが、自身は(本編では「狭間の地」の人々に迫害されていた種族である)しろがね人の「宿将ガイウス」と極めて友好的な関係を築いており、彼が住む「影の城」の内部では、前述の壺人たちをなんとか治療しようとしていたのではないかとも捉えられる痕跡を確認することができる。さらに、母であるはずのマリカから距離を置かれた(「影の地」に残された)ことによって、息子でありながらも、マリカに対して強い疑念を抱くようになっている(彼の最期の言葉は、「母よ、マリカよ…/私は、呪う、貴方を…」である)。
さらに、本編においても強烈な印象を残した重い病であり、同時に最も過激な信仰ともいえる「狂い火」においても、『SOTE』ではより踏み込んだ描写がなされている。作中屈指の混沌としたエリアの先に待つ「狂い火の王、ミドラー」は、まさに狂い火を宿し、角人たちから罰を受けた賢者であり、その姿はあまりにも酷く、痛々しい。本来であれば自ら命を絶っていてもまったく不思議ではない有り様だが、主人公が訪れるまで、彼はずっと自らの館で苦しみに耐えながら生き続けている。その理由は、彼の妻が告げた「耐えてください」という言葉にあり、まさに呪いの言葉となって彼を生き地獄に縛り付けている。本編におけるマルチエンディングのひとつとなっている「狂い火」だが、それはある種の破滅的な思想であり、この世界のすべてが破滅することを願う信仰とも言えるだろう。だが、あまりにも痛々しいミドラーの姿は、狂い火を支持してもなお生き続けてしまった者の末路を示唆しており、彼に冠せられた「狂い火の王」という肩書きが本編におけるエンディング名と一致していることを踏まえると、狂い火を選んだ主人公の未来の姿とも重ねることができる。また、「耐えてください」という言葉は、そうした苦しみを抱える人物に対して、信仰など関係なく、ただ生存を願い続ける人々の想いの表れでもあるだろう。だが、それもまた、他者にすがりつくという意味では、ひとつの信仰なのかもしれない。
『ELDEN RING』本編では、黄金律という信仰をひとつの大きな軸として、さまざまな信仰を持つデミゴッドたちが争う姿を描き、最終的には、王となったプレイヤー自身に、新たな律の選択が託される。それは極めて重要な選択であり、『SOTE』では黄金律の負の側面や、極めて過激な手段によって新たな律による世界を築こうとするミケラという存在、そして信仰そのものに対する疑念をさまざまな形で投げかけることによって、あらためてその選択の重さをプレイヤーに投げかけているように感じられる。
それはDLCという手段だからこそできるアプローチであると同時に、ある意味では本編の反響に対するフロム・ソフトウェアなりの回答と言えるのかもしれない。実のところ、本編におけるエンディング分岐において、「大いなる意志」に命じられるがままに黄金律の復活を行ったプレイヤーは、実は多数派ではない。PlayStation版のトロフィー取得率を確認すると、エルデンリングを修復する「エルデの王」エンドを迎えたプレイヤーの割合が21.9%であるのに対して、ラニの願いを聞き入れる「星の世紀」エンドを迎えたプレイヤーの割合は24.8%となっている(2024/08/26時点)。エルデンリングの修復手段自体もさまざまな信仰に基づき、多岐に渡っているため、実際にはその差はもっと大きいだろう。筆者も1周目で「星の世紀」エンドを迎えているので、あえてこのように書くが、本編において最も多くのプレイヤー支持を集めたのは、黄金律ではなく、ラニという個人(あるいはヒロイン)だったのである。もちろん彼女が支持する信仰に共感したというプレイヤーも少なくはないだろうが、恐らくは(筆者個人を含め)それ以上にラニというキャラクターに対して魅力を感じたことで、このような結果になったのであろうということは、容易に推測することができる。これを踏まえると、黄金律に立ち向かう人々や、信仰そのものに対して強い疑念を投げかける『SOTE』の存在が、より興味深く感じられるのではないだろうか。
とはいえ、結局のところ『SOTE』は『ELDEN RING』のDLCであり、こうした物語上のテーマを特に意識することなく、純粋にゲームとして楽しむことができてしまう。だが、明確な玉座という地位ではなく、信仰による争いを描いた『ELDEN RING』という作品が、これまでの「ソウル」シリーズとは異なる物語の魅力を持っているのは確かであり、それは、ある意味では本編の物語に対するアンチテーゼとしても機能する『SOTE』という存在によって、さらに強固となったように思う。
現代においてもそうであるように、巨大な信仰とはそれ自体が巨大な権力である。信仰に対する疑念や、信仰同士の対立といえば、ファンタジーにおける定番の題材ではあるが、同時にその多くは現代に対するメタファーとしても機能してきた(『ELDEN RING』の世界観を構築したジョージ・R・R・マーティンの作品群においても同様であり、彼が原作を担当した「ゲーム・オブ・スローンズ」では、まさに信仰が強大な権力を獲得する場面があった)。本編と『SOTE』の構図を現実の世界に照らし合わせてみると、もしかしたら、より深くその物語を味わうことができるかもしれない。少なくともその奥深い魅力は、本作を単なる高難易度ゲーム以上の、極めて重厚な存在へと引き上げている。