スマホ版『VRChat』の登場がもたらす、“巨大な変化”とその未来
2023年3月30日、ソーシャルVRとして最大手である『VRChat』から、スマートフォン版の開発が進んでいることがアナウンスされた。2019年にリリースされたMeta Quest版以来、久しぶりの新しいプラットフォーム対応となる。3〜4ヶ月以内に有料版である『VRChat Plus』のユーザーへ提供され、一般ユーザーへの開放はその3〜6ヶ月後、つまり1年以内を目処に『VRChat』はスマホへ対応することになる。(※Android版のみ。iOSについては未定とのこと)
さて、スマホ対応のソーシャルVRといえば、先進的なのが『cluster』だ。スマホ対応はなんと2020年で、『VRChat』に先んじること3年、日本で初めて対応したサービスとして、ユーザー側の認知やアプリの洗練も進んでいる。なので、こと日本においていえば、『VRChat』のスマホ対応は少し遅いようにも感じられる。ただ、『VRChat』のユーザー数は『cluster』のおよそ100倍ともいわれており、今回のニュースがソーシャルVRの未来に与える影響はかなり大きいはずだ。
では、このVRChatスマホ版のリリースは、具体的にどんな変化を及ぼすのだろうか?
VRChatにおけるスマホ版の意味とは?
ここで、『VRChat』におけるスマホ版の立ち位置を整理してみたい。『VRChat』が対応するのはPC-VR、デスクトップPC、そしてスタンドアロンヘッドセットのQuestだ。フルに機能が使えるのはPC-VRのみで、デスクトップはマウス・キーボード操作のため操作が制限され、当然VRでもない。QuestはVRだし操作もPC-VR同等だが、処理能力の限界から扱えるワールドやアバターが制限されている。
スマホ版も当然、このような“機能限定版”となる。VR不可は当然として、タッチパネルというUIによる操作上の制約、処理能力の限界からワールド・アバターの制限が入るはずだ(ほぼスマートフォン同等のスペックであるQuest並になるだろう)。悪く言えばデスクトップPC版とQuest版の“悪いところ取り”ともいえる。
いいことと言えば、ほぼ先進国の全員が持っているスマホに対応することで、ユーザーの間口がぐっと広がることだけ……などと、私を含む「フル機能版」を知っている既存のPC-VRユーザーは考えてしまいがちだ。
『VRChat』にとって実はVRは本質ではない
しかし、よくよく考えてみよう。
『VRChat』の主な使われ方といえば、その名が表す通り、仮想空間の中でのおしゃべりである。VRを生かしたゲームやアトラクションはあるが、それもとどのつまり交流のためのツールといえる。つまり、『VRChat』にとってVR要素は実は必須ではないのだ。これは『VRChatPC版ユーザーの半数以上が非VRのデスクトップ版である事実からも裏付けられる。
では『VRChat』のコアとなる体験とは、VRでなければなんなのか。おしゃべりをするだけなら、それこそ通話アプリやWeb通話ソフトでいいのではないか。それらにないものはなんだろう。
私なりの答えをいえば、それは「同じ空間を共有して、お互いの姿を見ながら会話すること」。それらしくいえば「空間的コミュニケーション」である。
そうと意識しなければ気づかないが、人は現実空間のコミュニケーションで非常に多くの非言語的(Non-verbal)なやり取りをしている。たとえば、物理的な距離感。親しくない人が近すぎれば不快だし、逆に親しい人に変に距離を取られると少し寂しい。ほかにも顔や視線の向きが自分を向いているか、他の人を向いているかで関心度合いが分かる。人が複数いる時などは、人がどこかに集まっているということ自体が強力なシグナルにもなる。皆さんも身に覚えがあるのではないだろうか。このように「人がそこにいる」と認識できることは、実はそれだけで相当に強力なコミュニケーションなのだ。
これこそが『VRChat』にはあって、通話アプリには存在しない情報にほかならない。つまり『VRChat』のコアとなる価値観は、人=アバターの姿が、それを取り巻く空間を含めて描かれている「空間的コミュニケーション」であることにこそある。VRはその現実感をちょっぴり強めている“オマケ”にすぎないと思う。
実はスマホ版こそが「本命」なのでは?
すると、一見して機能限定版でしかなかったスマホ版は、実はこうした空間的コミュニケーションを取るうえではもっとも優れたツールのように思えてくる。なにしろ手軽で、どこでも使えて、誰でも持っているのだから、コミュニケーションツールとしてこれ以上のものはない。実のところ、スマホ版が公開されて2年あまりが過ぎた『cluster』では、一種の通話アプリとして『cluster』を使う若年層が増えているという。
思い返してみれば私も学生のころには、友人が集まっていると意味もなく輪の中に入っておしゃべりをした気がする。一方、昨今のコロナ禍はそうした場を私たちから奪ってしまった。それでも、そういった空間を友達と共有する素朴な楽しさは間違いなくあって、その代償となる場所をソーシャルVRの中に彼らが“発見”したことは、ある種自然な流れのように思える。そしてコロナ禍が開けても、私たちにテレワークが定着したように、彼らに起こった変化は不可逆なはずだ。