追悼・高橋和希先生 『遊戯王』が遺してくれた“本当の宝物”
高橋和希先生が亡くなった。すでに大きなニュースになっているように、彼の訃報のショックは大きい。特に私のような10代、20代にとって、いまだ『遊☆戯☆王』(以下、遊戯王)は、原作であるマンガ、アニメ、そしてカードゲームにおいて幼少期において夢中になった者も少なくない。そんな遊戯王からは、人生で大切なことを本当にたくさん学んだ。
単に幼少期に夢中になったおもちゃであれば、遊戯王のほかにもいくつもあるし、その数だけ教えられたこともある。そのなかでも、特に遊戯王が私たちにとって大切だった理由とは何だろう。まだ子どもだった私たちがアスファルトの上で無邪気に走り回り、スリーブに入れないままカードをズタボロにし、洗濯機でレアカードをくしゃくしゃにしてしまったころの記憶を引っ張り出そうと思う。
『遊戯王』は元々漫画だった。少年ジャンプで連載されていたマンガで、正式には『遊☆戯☆王』と表記する。小学生時分の子どもにとってジャンプは「ちょっと大人向け」な雑誌で、週刊のランニングコストを考慮すると、読み続けるには寛容な兄姉など、それなりの環境が必要だった。そんなジャンプ漫画の中でも『遊戯王』はひときわダークな作品だ。気弱な武藤遊戯が、古代エジプトの遺物「千年パズル」を解いたことで、聡明かつやや残酷なもう一つの人格と同居し、様々な悪人を相手にゲームを仕掛けていく。負けた相手には容赦ない「罰ゲーム」を与え、苦しむ敗者を見て高笑いする遊戯は、ヒーローというよりほとんどヴィランだった。
そんな『遊戯王』は「マジック&ウィザーズ」、後に「デュエルモンスターズ」となるカードゲームを本格的に扱う「王国編」から人気が急上昇し、アニメ化も決定。さらに「デュエルモンスターズ」はそのまま「遊戯王OCG デュエルモンスターズ」として商品化され、こちらも飛ぶように売れた。当時の子どもは、このマンガ、アニメ、カードゲーム(TCG)のメディアミックスによって誰もが遊戯王を知り、夢中になる環境だった。
筆者もそんな遊戯王少年の一人だった。小学校に鼻水を垂らしながら通うころ、私は主人公の遊戯のように内気で、さすがに不良にこそいじめられていなかったが、友達もそう多くはいなかった。そんな自分でも、公園に行って、遊戯王のデッキを持っていけば、クラスのどんな男子とでも仲良くなれた。喧嘩の強いやつ、金持ちのやつ、海外から来たやつ、いつも周囲を笑かすやつ、他校のやつ、そいつの兄貴や弟。とにかく、普段は接点もない、無意識に避けるような人たちが、公園にはいつも集まって、常に遊戯王をプレイをしたり(=デュエルをする)、遊戯王のコミックスを貸し借りしたり、アニメの感想を話したりした。
遊戯王がなければ、彼らとは知り合うことはあっても、友達にはなれなかっただろう。自分が遊戯なのだとすれば……いやひょっとすると、彼らもまた同様に「自分が遊戯だ」と、周囲に打ち解けられない内気な存在であったのかもしれない。そんな自分たちを結びつけたのが、ほかでもなくマンガであり、アニメであり、カードゲームでもある遊戯王だった。あのYouTuberであるはじめしゃちょーも、Twitterで同じような経験を共有している。
友達が少なかったオレは、遊戯王のおかげでだいちくんやたなっち、けんすけ、いろんな後輩や仲間たちと出会えました。
素敵な作品を本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
— はじめしゃちょー(hajime) (@hajimesyacho) July 7, 2022
でも遊戯王がなければ、友達と遊ぶことがなかったかといえば、そうでもない。実際、自分たちは冬になると発売したばかりの『ポケモン』を遊ぶためにゲームボーイを持ち寄っていたし、人の家に集まれば自然と『大乱闘スマッシュブラザーズ』の大会が始まるものだった。もちろん、野球もサッカーもドッジボールもやったし、UNOも大富豪も散々やった。別に遊戯王だけが、自分たちにとって大切なおもちゃでなかったのも事実だ。
それでも、遊戯王はやっぱり特別な気がする。大切な思い出の中で、どうしても遊戯王は少しだけ特別に、色濃く脳裏に焼きついている。一体それは何だろう。
それはきっと、遊戯王の抽象的なルールと、それに伴う「喧嘩」が原因かもしれない。たとえば、遊戯王には《サイクロン》というメジャーなカードがあり、テキストには「フィールド上に存在する魔法・罠カード1枚を選択して破壊する」と書かれている。シンプルかつ強力な効果だが、しばしこのテキストを誤解する者が現れた。テキストにある「破壊」を直截に解釈し、相手が使った罠カード《聖なるバリア ーミラーフォースー》を《サイクロン》で破壊することで、効果まで無効にできると主張するのだ。
これは遊戯王ではしばしある誤解で、厳密には、《サイクロン》は《ミラーフォース》を「破壊」することは可能だが、《ミラーフォース》はすでに発動されてしまった後なので「破壊」されても効果までは「無効」にされず、そのまま発動する。もし《ミラーフォース》を無効にしたいなら、《神の宣告》のように「その発動を無効にし破壊する」と書かれたカードを使わなければいけない。
ところがこのルールは、小学生の理解力には少々複雑すぎた。しかも、初期の遊戯王のテキストはいい加減で、たとえば有名な魔法カード「融合」の初期テキストは「決められたモンスターとモンスターを融合させる」というもので、どこに存在するモンスターを融合させられるのかも書かれてない、とても抽象的なものだった。よって当時、ルールの解釈を巡ってしばしば議論……というには稚拙な、単なる喧嘩が起きた。
こうした子ども同士の喧嘩に発展したのは、ルールやテキストが分かりづらいだけでなく、先行していた漫画やアニメでプレイされる「デュエルモンスターズ」と実売されていたTCG版「遊戯王」が別物だったこともある。たとえば《ミラーフォース》もTCGであれば「相手フィールドの攻撃表示モンスターを全て破壊する」というものだが、原作では「敵の攻撃を四方に跳ね返す」という内容で、相手のモンスターはもちろんのことプレイヤーにまでダメージを与えるとんでもないカードだった。
さて、ただでさえルールがいい加減な上に、原作はもっとハチャメチャなので、マンガやアニメの影響で遊戯王を始めた小学生はもっといい加減に遊んでしまう。《ミラーフォース》を《サイクロン》で無効にできるのは無論、その《ミラーフォース》で相手のライフポイントを0にできるとか、《ミラーフォース》の反射攻撃を《魔法の筒》で弾き返されて逆に自分が死ぬとか、もうテキストにすら書いてない効果処理を、ノリノリで「ワハハハハハ」などと高笑いしながらやってしまうのである。
それでも、子どもたちは遊戯王を楽しんでいた。いや、好意的に解釈すると、子どもたちは遊戯王のいい加減さ、言い換えれば曖昧さを楽しんではないかとさえ思う。《サイクロン》の「破壊」とは何を意味するのか。《ミラーフォース》の攻撃を《魔法の筒》で跳ね返せないのは何故か。原作のように《岩石の巨兵》で《月》を破壊すると、海面が下がって水属性モンスターが陸揚げされるのではないか。そういう、ルールの曖昧さ、原作との整合性、これらを小学生なりのロジックで正当化したり、批判したりしていたのである。
もちろん、現在の遊戯王ではルールが整理され、テキストもわかりやすく修正され、アニメでさえ次第にTCG版のルールへと忠実になっている。ちゃんとルールに従ってプレイすることで、本来TCGで得られる論理的な思考、戦略的な駆け引きなどの体験を味わえる。ただ、現代のルールが整備された遊戯王でも、アナログゲームである以上、カードの処理を巡ってプレイヤー、またジャッジを含め議論の余地が、つまりは「曖昧さ」が残されている。
この曖昧さは、単にゲームをプレイするだけでなく、そもそもルールをどう解釈し処理するべきなのか、それどころか原作で遊戯や海馬瀬人がこういうプレイをしていたから自分たちも真似していいのではないのかといったルールの改案を含め、プレイヤー同士で主張し、議論し、時に喧嘩する余地があった。その時、子どもにとっては単なる世間話では起こり得ないような、より互いの考えや価値観に踏み込んだ議論が発生したと思う。
それは議論というにはあまりに稚拙すぎ、ほとんど喧嘩のようなものだったのは否定しない。けれども、子どもにとって「このカードはどう処理するべきか」「あのカードはどう使うとかっこいいのか」と考え、ぶつけあう体験は非常に貴重かつ有益なもので、何より、そうした議論を通じて本当の意味で友情が培われていった。