石若駿とAIの共演が生み出した、“即興演奏を解体&再構築する”特殊な音楽体験 『Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち』を観て

 ドラマー、石若駿。ジャズからロック、ヒップホップ、あるいはポップミュージックにいたるまで、あらゆるジャンルからその実力を評価される引っ張りだこのプレイヤーであり、Answer to RememberやSMTKをはじめとしたリーダープロジェクトでも精力的に活動する俊英だ。そんな石若が、2022年6月4日・5日の2日間にかけて、山口情報芸術センター(以下、YCAM)で新作パフォーマンス公演『Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち』を発表した。

 石若とYCAM、及び招聘した研究者たちが協働し、2019年末から一年半以上にわたって制作してきた本作は、石若がライフワーク的に続けてきた即興のドラムソロパフォーマンスを、「自分自身との共演」というアイデアを出発点にAIを中心とするテクノロジーで拡張したもの。石若の演奏を学習しモデル化したエージェントと石若本人がセッションを繰り広げた。2日目となる5日の公演には、石若と同じくSMTKのメンバーであり、互いの作品を通じたコラボレーションもあるサックス奏者の松丸契がゲスト参加した。

松丸契(左)と石若駿(右)

 AIと気鋭のプレイヤーの共演、しかも即興演奏。言葉にするぶんには興味深いものの、どう転ぶのか予想のつかない試みだ。実際に見ることができたステージは、想像以上のものだった。

 スタジオAでの公演は、空間の設計からユニーク。この公演のために制作された5種類のエージェント(リズムAI、メロディAI、サンプラー、シンバル、そして石若考案の打楽器PONGO)が会場内に点在し、視覚的にもサウンド的にも、ライブベニューでありがちなステージ/観客の正面性とは異なる効果を生み出していた。

 扇形の客席に囲まれた中央には、石若が演奏するドラムキット。その周囲には発振するシンバル群と、巨大なガラガラ抽選機のようなPONGOがふたつ(さらに小型のPONGOもひとつ、会場端に置かれている)。リズムAIが演奏する、楽器を叩くアクチュエーターが据え付けられたドラムが会場の奥や客席のあいだに点在し、サンプラーAIからの出力を再生するスピーカーも添えられている。石若の奥には、メロディAIが演奏するMIDIピアノが鎮座。2日目の公演では、松丸が石若、エージェント、観客のあいだを動き回りながら演奏する姿がみられた。

 公演は、両日ともに1時間弱。石若のソロ演奏にはじまり、徐々に各エージェントが演奏に参加してゆく。発音するエージェントには都度スポットライトがあたり、「なにが起こっているのか」を視覚的に補助する演出も効果的に用いられていた。

 エージェントたちのなかでもひときわ目を引いたのは、やはりPONGOだろう。六角形の筒のなかにさまざまな音を奏でるオブジェクトが入っていて、回転するのにあわせて不規則なグルーヴをつくりだす。とはいえ、土台になっているのは筒の回転運動なので、完全なランダムというわけではない。特に、3つのPONGOのなかでも、石若がペダルでコントロールする足踏みPONGOは、回転速度のムラによって規則性と不規則性のあわいを感じさせるサウンドを奏でていた。

 

 公演を通じて印象的だったのは、エージェントの演奏に耳を傾け、フレーズ単位だけではなく、テクスチャをさまざまにコントロールしながら即興をつむいでいく石若の姿だった(たまたま初日、石若の演奏を細かく見ることができたという事情もあるが)。スティックだけではなく、ブラシやマレット、弓などさまざまな奏法を駆使し、また細かいパーカッションをいくつもキット上に重ねながら、一打一打の響き自体を即興的につくりあげていく。松丸の演奏も、エージェントの演奏とときに対比されるように、ときに寄り添うようにフレーズを選び取りつつ、テクスチャへの志向を感じさせる瞬間が多かった。特に、リアルタイムの演奏にあわせて過去の演奏音源がカットアップされるサンプラーAIとの距離感は興味深く、性急に動くサックスのサンプルにゆるやかなメロディやロングトーンを合わせるようなコントラストが聴き取れた。

 「AIとの共演」というと、どうしてもAIという擬似的な主体、本作で言うところのエージェントが持つ「人間らしさ」のレベルだったり、あるいはエージェントと人間がどのようなインタラクションを育むのか、といった面に意識がいってしまう。もちろん、セッションのなかにはハッとするような瞬間がいくつもあった(2日目のラスト、MIDIピアノのソロで幕引きとなる展開は信じられないほど見事だった)し、実際の演奏を聴き取りながら全体の展開を司る「メタエージェント」の発想――石若らの表現を借りれば、AIに「耳」を持ってもらうための仕組み――は、AIと人間のインタラクションを考えるうえで示唆に富むものだった。また、エージェントと共に演奏するという経験自体が、石若にとっても松丸にとってもさまざまな思考や実験を触発する契機になったことは間違いない。

 しかし、本作で個人的にもっとも印象的だったのは、各楽器(ベースドラム、スネア、タム、ハイハット、シンバル……)が奏でる音色のおもしろさだ。と書くとごく素朴な感想に思われるかもしれないが、本作ならではの理由がもちろんある。それはざっくり次のふたつにわけられる。

 第一には、そもそも約束事のない即興演奏という性質ゆえに、各楽器に固定した役割を当てはめる必要がない、ということ。「こんなパターンを演奏するのだったら、この楽器はこう響かなければならない」という思考にしばられることなく、さまざまな実験に没頭できる。第二には、ソレノイドによって発音する各楽器が、キットから解放されて会場内に散らばっていたこと。キットの物理的な制約からも、ドラマーの身体という制約からも離れたエージェントの演奏は、個々のサウンドにせよ、ソレノイドというアクチュエーターがもたらすアーティキュレーションの面にせよ、耳慣れたドラムのサウンドとはまた異なるテクスチャをまとっていた。本作が持つこれらふたつの特徴がいたるところで絡み合って、ドラムキットという楽器に対する印象がひそやかに塗り替えられるようなところがあったのだ。

 ソレノイドと「共演」するにあたって、ドラムキットを模すのではなく、あえて空間を広く使った理由について、公演後の取材で石若はこう答えてくれた。

「人間の演奏は、すごくランダムな、偶然みたいな演奏をしていても、どこかに体内のタイム感や拍感があると思って。ソレノイドの演奏は、手と足が体内と全然関係ないように聞こえたんです」

 体内に流れるタイム感を「中のリズム」、実際に手足が演奏しているものを「外のリズム」とすれば、ソレノイドの演奏は「中のリズム」を欠いたものだった。そこで無理に「中のリズム」をつくりだそうとするのではなく、会場全体に「外のリズム」としてのソレノイドを配置し、「中のリズム」を自分が担うということができるのではないか。そんな発想だったという。

 統一した身体を持たず、出せる音の範囲にも制限があるソレノイドを無理に人間に近づけるのではなく、むしろ別の可能性に開いていく。身体性の欠如を空間的な拡張へと裏返した結果として、多様な打楽器をひとつにまとめたキメラ的楽器としてのドラムキットの解体・再構築という切り口が副産物としてうまれてきたわけだ。

 もとより多様な音域・響きの楽器がいりまじったドラムキット。それがつくりだすサウンドの豊かさを発見するという意味では、YCAM内のホワイエに設置されたインスタレーション「Echoes for unknown egos with cymbals」も意義深いものだった。公演でも用いられている、フィードバックの原理を応用した発振するシンバルたちが持続音を奏でる作品だ。スタジオAでの演奏を終えた後、1日目は石若がヴィブラフォン、2日目は松丸がサックスのソロで共演した作品でもある。

 

 複数のシンバルが奏でる豊かな響きは、普段見聞きするシンバルのそれとは似て非なるものだった。スティックによる発音とも、弓の摩擦による発音とも似て非なる、複雑な倍音を感じる持続音。物理的な振動がつくりだすうねりが一定のピッチのなかにさまざまな表情を与え、互いに共鳴しあう。取材のなかでは石若も松丸も、人の声にたとえながらそのサウンドを語っていたのが興味深かった。実際、電子音のような響きがあらわれることもあれば、有機的な変化を生じさせることもあり、そのニュアンスには声のような存在感があった。シンバルに対してこれまで持っていた印象とはことなる姿を提示するこのインスタレーションは、石若がプレイヤーとしてシンバルに触れてきた経験から生まれたものだ。楽器のつくりだす響きに鋭敏に反応し、自分の語彙に取り込もうとする石若の態度を具現化するかのような作品と言える。

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