絶対実現できないと思われた「ソラ参戦」 そこに至る『スマブラ』と桜井政博の「参戦史」を追う

『スマブラ』と桜井政博の“参戦史”

 Nintendo Switch向けの対戦アクションゲーム『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』(以下、スマブラSP)にて、先日最後の追加ファイター「ソラ」が発表され、大きな話題となっている。

 ソラはスクウェア・エニックスの人気ゲーム『キングダム ハーツ』における中心的なキャラクターだ。最初に『キングダム ハーツ』がリリースされたのは2002年だが、軽快なアクションと壮大なユニヴァースによって人気を博し、最新作の『3』を含めれば全世界で3200万本売れるなど、ゲーマーから長らく愛されている。

 ゆえに、シリーズの顔ともいえるソラも「いつか『スマブラ』に出してほしい」という願望を持つ者も多かった。事実、『スマブラSP』ディレクターの桜井政博氏によれば、公式サイトで行った新規参戦キャラクターのアンケートでも、堂々トップがソラだったという(参考:https://blog.ja.playstation.com/2019/07/25/20190725-kh3/)。

 ではどうして「ソラ参戦」は長らく実現しなかったのか……そう、実現できないだけの理由があった。(ある程度ゲームファンは察するように)ソラには「全ゲームの中で最も参戦が難しいだけの理由」があったのだ。

https://blog.ja.playstation.com/2019/07/25/20190725-kh3/ それはソラというより、ソラが持っているキーブレードについている「アクセサリー」にある。それはどう見ても、ミッキーマウスのシンボル。3つの円が重なった、全世界のエンタメの象徴たるディズニー社そのもの……。そう、『キングダム ハーツ』とはソラたちが数々のディズニー世界を冒険し、ディズニーキャラクターたちと交流するという、当時も今も前例のない、とんでもないビデオゲームなのだ。

【スマブラSP】ソラのつかいかた

 だから、ソラをスマブラへ参戦させることは、ディズニーキャラクターが任天堂のゲームへ登場するのに等しい。事実『キングダム ハーツ』の規約には必ず「©Disney. Developed by SQUARE ENIX」とある。ソラ参戦の発表配信にて、桜井氏は「えぇー!」とわざとらしく驚いてみせ、「ソラの参戦がいかに難しく、ハードルが高いことか、事情を察してもらえると思う」「他のファイターが一人増えるのとは意味合いが異なる」と話すが、「事情」を鑑みれば、これでもかなり控え目に表現していると言えるだろう(参考:https://www.jp.square-enix.com/kingdom/khhd1_2/conditions.html)。

 スマブラのソラ参戦は、ビデオゲーム史に残る偉業として間違いなく刻まれるだろう。しかし、「ローマは1日にして成らず」と言うように、ソラ参戦は桜井政博が長いキャリアの中で到達した一つの頂点(あるいは、それさえも道中なのかも)に過ぎない。

 今回はこの「ソラ参戦」を機に、世界中のファンを楽しませ続けた奇跡のゲーム『スマブラ』と、その『スマブラ』の生みの親にして、いまも同作に貢献し続ける日本が誇る伝説的ゲームデザイナー、桜井政博の軌跡を辿りたい。

19歳で500万本売れるゲームの企画書を書き上げる

 桜井政博は1970年、 東京都の武蔵村山市に生まれる。桜井は幼少期からゲームを嗜み、4~5歳のころには「ブロック崩し」のようなゲームに触れ「テレビ画面の中のモノを自分で操作できる強烈な感動」を受ける。任天堂が1983年に発売したファミリーコンピュータは当日に購入し、宮本茂、堀井雄二などのレジェンド世代の作ったゲームをプレイし、吸収していく。

 なかでも1984年、半年分の小遣いを貯蓄して購入した『ファミリーベーシック』は、桜井がゲームクリエイターを志す動機となった。ファミリーベーシックとはファミコンと接続してBASICのプログラミングを可能にする周辺機器で、たった2000バイト未満であったが、すでに中学生にしてゲームを作ることの喜びや難しさを桜井は知る。

 その後、桜井は一度電気工学の高専に入学するが、「自分がやりたいことではない」「ビデオゲームという興味深い娯楽そのものを深く知り尽くすことで、スペシャリストになるべきだ」と考え、普通高校に編入。それからはアルバイトをして新旧こだわらずゲームソフトを購入し、最後まで遊んでは「何が面白いのか」を研究するという、いまも続く「ゲーム研究」の習慣を確立する。

 この「ゲーマーでありながら、ゲームクリエイター」という出自は、ゲームフリーク(ゲーム愛好家)という同人サークルから始まり『ポケットモンスター』を生み出した田尻智(1965年生)と並び、いわばゲームクリエイターの第二世代と言える。宮本茂が自然の中で培った遊びの感覚を作品にリキッドに反映させたのに対し、田尻や桜井は「遊びの感覚」に加え、すでに成功した作品を研究する「ゲーマー力」によって新しい地平を拓いている。

 かくして1989年、桜井は高校卒業とともにハル研究所に入社。早々にその能力を買われ、わずか1年でデビュー作となる『星のカービィ』の企画書を執筆。

 すでにゲーム市場がある程度成長し、ゲームがより複雑かつ困難な内容に「成熟」していく状態に対し、『星のカービィ』は十字ボタン+ボタン1つで誰でも簡単に親しめるゲームとして設計されたもの。カービィのデザインは桜井本人がドットで一から打ち込んだものであり、まん丸でキュートな見た目でも寡黙にして無表情なその姿は、どんなプレイヤーでも感情移入できる「カーソル」として受け止められるためだったというが、そこにもゲーマーらしい桜井の目線、いわば桜井イズムが制作に活かされていると言えるだろう。

 いまも続くシリーズの先駆けでありながら、わずか1年の開発期間で、桜井自らツインファミコンを駆使してドット絵を打ち込んで完成させたというのだから驚く。1992年に発売された『星のカービィ』は世界で500万本も売り上げる快挙を成し遂げ、再建社長として任命された故・岩田聡と共に、当時、経営上の問題から一度倒産する危機にあったハル研究所を救ったのだった。

 桜井は続く1993年、吸った相手の能力を自分のものとする「コピー能力」で、シンプルかつ深い戦略性を生み出した『星のカービィ 夢の泉の物語』を、1996年には任天堂・宮本茂の要望で2人で協力プレイができる「ヘルパーシステム」を導入し、一方でより手軽に小さな達成感が味わえる、ワンボタンだけのミニゲームを7種類搭載した『星のカービィ スーパーデラックス』を発売。わずか26歳にして、桜井は日本有数のカリスマゲームディレクターへと成長する。

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