『オクトパストラベラー』が放棄したストーリーテリングは、レトロゲーが持つ魅力を増幅させた

『オクトパストラベラー』が放棄した“物語”

裏ボス・ガルデラの存在をどうとらえるべきか?

 しかし同作を「最後」までプレイした方は「裏ボス・ガルデラの存在によって8人の物語の統一性が明らかになったことは、どうとらえるべきなのか?」という疑問を持つだろう。ネタバレを避けるために詳述はしないが、実は「最後」のサブストーリーをクリアすると、8人いる主人公たちの物語が、ある部分では一つに繋がっていたことが判明する。

 これを見れば、たしかに『オクトパストラベラー』には一つの「結末」が用意されていると言える。しかし、そうだとしても、やはりこのガルデラの存在さえもナラティヴの視点からとらえるべき魅力であると筆者は考える。というのも、ガルデラを倒したときの感動は、そのシナリオの構成やメッセージ性に対して抱かれたものというよりも、むしろそれまで断片的にしか捉えられなかったナラティヴが結びついた体験それ自体への快感であるはずだから。あるいは、(それまでのボス戦と比べると桁違いに)難易度の高い戦闘をクリアしたこと自体への達成感であるはずだ。

 また、あえてガルデラがメインストーリー上のラスボスではなくサブストーリー攻略後の裏ボスとして設定されていることは、同作の主題はあくまでもナラティヴとゲームプレイ自体の快楽であって、シナリオの妙ではないということを象徴していないだろうか(したがってラストの結末は、プレイヤーが断片的な描写から抱いた想像力に対して、開発者側があらかじめ作成した二次創作のようなものであるとも考えられる)。

 すなわち、同作の魅力をまとめるとこういうことになる。オルステラ大陸にまつわる断片的なナラティヴ(おはなし)が語られることによって、プレイヤーはゲーム空間に対して体系的な世界観を想像、いや妄想する。そしてそれを原動力とし、プレイヤーは一見メインストーリーとは関係なさそうなサブストーリーやダンジョンをくまなく攻略し、膨大なテキスト量で描かれた無数のNPCとの会話を繰り広げ、ゲーム体験としての「旅」そのものを楽しんでしまう。

 このような、(かつては技術の限界からそうせざるを得なかった)断片的な情報から想像を膨らませて楽しむという体験こそが、「ドット絵の懐かしいゲーム」の魅力ではないだろうか。

■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter

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