クリストファー・ノーランはなぜ古典的な英雄譚に挑戦した? 『オデュッセイア』にみた変化

 “出かけた男がなかなか帰らない”という展開は、現実の歴史でも星の数ほど存在したケースであろう。旅立つ男と、それを待つ女……狩りや戦争、あるいは会社勤めや出張など、男性が外の世界へ出ていき、女性が家でその帰りを待つという構図は、数多の物語や演劇、映画においても、何度となく描かれてきた。

 設定上では、故郷イタケへなかなか帰り着かない展開に陥ってしまうのは、ポセイドンの怒りを買ったからだとされている。しかし冷静に見ると、オデュッセウス一人しか帰り着いていないため、荒唐無稽ともいえる冒険の数々を他に証明してくれる者がいないというのが、興味深いところだ。これは例えば現代の男性会社員が、仕事が終わってもすぐには自宅へ帰らず、飲食店やバー、居酒屋などに入り浸ってしまい、あり得ないような言い訳を妻に力説しているような構図に見えてこなくもない。

 つまりオデュッセウスは、物語の真贋にかかわらず、単になかなか帰れないだけでなく、深層心理で帰ることを拒否していたようにも感じられてくるのである。であれば、何が彼をそうさせていたのか。この理由を考える上では、戦地に行った兵士の心理がヒントになるだろう。例えばベトナム戦争を題材にした『ディア・ハンター』(1978年)や『地獄の黙示録』(1979年)といった映画作品では、やはり本国に帰ろうとしない軍人が描かれた。実話を基にして、ベトナム戦争から帰還した後を描く『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(2026年)では、アメリカに帰国した後にもフラッシュバックに苦しむ元兵士の姿が映し出される。

 身体がどこにあろうと、その精神は激しい戦いや虐殺がおこなわれたベトナムの地に縛られ、離そうとはしてくれない。そうした感覚がトロイア戦争後のオデュッセウスにはあったのではないだろうか。どこにいても、結局は戦地へと引き戻されてしまう。それが“帰れない”ということの本質なのではないか。それが、戦争の加害によるPTSD(心的外傷後ストレス症)に由来していたという、本作独自の解釈による真相部分へのアプローチが、非常に現代的だといえる。

 このように捉えることで、荒唐無稽であまりにも困難で長い帰路が、自分の心理に向き合うために必要な時間であり、贖罪のための重圧だったという理解ができるのである。『ダンケルク』(2017年)では描かなかった戦争観や、『オッペンハイマー』(2023年)で顔を見せた加害への罪悪感というものが、ここでは詩として、あるいは冒険活劇として、かたちを変えて展開し、ノーラン監督のテーマ的な作家性を補完するように作用している。

 そうした作品の奥行きが、今回多くの観客に届いて大きなヒットに繋がったのかは分からない。だが少なくとも、こうした冒険譚が、これまで表面的な難解さを持っていたノーラン作品を、『オデュッセイア』という物語が、普遍的な明快さへと近づけたのは確かなところだろう。そして、その多くの観客が、実際に戦争が次々に起きている現在に、加害の傷に向き合うことになったのは、意義深いものがある。

 そうした現実の痛みを背負った冒険の帰還を描くだけでなく、本作のラストでは、ジェンダーロールや、男性だけが外に向かうというステレオタイプな観念からの解放が提示される。これは、ノーラン監督としては意外ともいえる、現在の社会的な先進性への合流である。

 そうした試みは、ポーズというわけでもなさそうだ。『インセプション』(2010年)でヒロインを演じさせたエリオット・ペイジ(当時はエレン・ペイジ)を、ここでは兵士シノン役にキャスティングしているのである。トランスジェンダー俳優として活躍する彼を、再び呼び戻したことや、伝統的に白人がキャスティングされることが多かったギリシャの時代劇に、ルピタ・ニョンゴやゼンデイヤを出演させることも同様だ。

 クリストファー・ノーラン監督は、罪悪感と向き合う物語のなかで、内にこもっていくのでなく、こうした開かれた方向で世界と繋がることで、精神的な解放へとオデュッセウスを導いているように思える。逆に言えば、われわれは常に新たな世界に目を向け、自分の観念を押し広げていくことでしか、真の意味で自由にはなれないのではないか。そのことを、ノーラン監督は自身の作品のなかで実践するに至ったのではないかと思えるのである。

■公開情報
『オデュッセイア』
全国公開中
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
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