『バックルームズ』徹底考察 見事に解明した“リミナルスペース”がもたらす不安感と安心感

 こうした感覚は、とくに20代となったケイン・パーソンズ監督の現実認識に深くかかわっている部分だといえよう。10代後半から20代にかけて、とくにクリエイターを志す若者は、大きなプレッシャーを感じることが多い。楽しいことに反応し、充実して作品づくりをおこなったり、もしくは毎晩さまざまな作品を鑑賞して、友人同士で議論を重ねたり。それは一つの理想的な青春だが、年齢を重ねるたびに、“現実の恐怖”がそこに侵入してくる。

 誰もがプロのクリエイターになれるわけではないし、実際に賞を獲ったり通用するようなスキルを得るまでには、時間がかかる場合が多い。気づけば周囲の友人たちは、夢から離脱して就職したり結婚していたりする。次第に、このままでは先のライフプランや老後がどうなってしまうのかという不安に飲み込まれていくのだ。

 もちろん、クラークはそうした若い登場人物というわけではない。しかし、夢に届かなかったり、パートナーに去られるなど、芽が出ずプライベートも充実していない中年男性として、ここではそのような若者の不安を“現実のもの”として表現しているのだ。同時に、夢を持ちながら叶えられなかった30代、40代のリアルな肖像としても機能しているのがおそろしい。

 リミナルスペースは、不気味な場所であると同時に、妙に安心感をおぼえる空間でもある。クラークはその中で、自分の変質した記憶の残骸とともに生きることを選ぶ。不健全であることは分かっているが、現実に恐怖を感じる者にとっては、そこが一番居心地が良く落ち着くのである。これは、日本における「異世界ブーム」とも間違いなく合流するような構造を持っているといえる。生産性もなく、社会との繋がりも乏しい、妄想世界と同義の異界……。だからこそ、そこでは自分の存在が許されるのである。

 ここで思い出してほしいのが、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)だ。押井監督は、少なくともこの頃から、人のいない街や路地、学校や水族館のような場所をフェティッシュに映像化していた。まさに、いまで言う「リミナルスペース」を扱う作家の一人だったのである。

 そして、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』もまた、高校生が“永遠の文化祭前日”という無限の繰り返しを生きる姿を描いている。『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズも、一部でこのような世界観を引き継いでいるところがあるが、これは、リミナルスペースとモラトリアムの感覚を繋げて描いた前例になるはずだ。

 実際、人のいない空間に行くと、われわれも不思議な感覚にとらわれることがある。深夜に外を歩けば、その気持ちを容易に味わうことができるだろう。昼間に見る道や建物が、違ったもの……不気味で安心できる場所に変質するのである。しかし、深夜の道をうろうろしたとしても、特殊な場合でもなければ、生産性は生まれにくい。24時間営業の店や自動販売機などでしか消費もできない。だからこそ、多くの人は深夜に外出しないのだ。

 筆者は深夜に外出して、公園や住宅地、静まったビル群のなかを歩いてみる趣味がある。それはまさしく、リミナルスペース的な非日常感を味わうためだ。そしてそれ自体には、やはり生産性は生じることがない。だからこそ落ち着くし、経済性と切り離された世界で思索ができるのだ。こんな静止した時間が、ずっと続けばいいと思う。そして、日々忙しく働いている人ほど、このような時間を味わう暇がないことも分かっている。

 本作が描いているのは、こうした感覚なのだと考えられる。夜、布団に寝ながら思い浮かべる妄想世界や、社会生活を拒否して引きこもった部屋の中でアニメシリーズを、時間を気にせず一気見するような行為もそうだろう。プロのクリエイターでもない限り、それを現実に役立てることは難しい。バックルームズに居続けるクラークと、そこから抜け出そうとするメアリー(レナーテ・レインスヴェ)は、そうした非生産的でどこか居心地のいい世界で、二つの価値観に引き裂かれる、一人の人間の葛藤を象徴しているように見えるのだ。

 そうした二人の感情ややりとりを描くことは、一見すると安易な“人間ドラマ”に逃げているように見えるかもしれない。しかし本作『バックルームズ』は、「リミナルスペース」がわれわれを惹きつけ、なぜ不安と安心を感じさせるのか、その大きな一端を、見事に理由づけ解明したのではないのか。それも、我々観客に影響し、ある人にとっては戦慄するレベルに達するかたちで。そしてそれは、ただ不可解なものを不可解なまま描き、不安を醸成させるような試みよりも、はるかに高度なことだと感じられるのである。

■公開情報
『バックルームズ』
全国公開中
出演:キウェテル・イジョフォー、レナーテ・レインスヴェ、マーク・デュプラス、フィン・ベネットほか
監督:ケイン・パーソンズ
配給:ハピネットファントム・スタジオ
2026/アメリカ/110分/英語/5.1ch/原題:Backrooms/字幕翻訳:佐藤恵子/G/
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