『急に具合が悪くなる』は“答え合わせ”の新作か 2010年代の濱口竜介とこれから

10年来の観客から見た初の海外進出作

 5月の第79回カンヌ国際映画祭にて岡本多緒が日本人初の女優賞を受賞し、6月19日に劇場公開された濱口竜介監督の初の海外進出作品『急に具合が悪くなる』(2026年)は、公開から1カ月以上が経ち、レビューもあらかた出揃ったように見える。その多くが絶賛だ。

 レビューのはじめに断っておけば、私は、作中の重要なモティーフの着想源となったという松嶋健『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』(世界思想社)はおろか、本作の原作となった『急に具合が悪くなる』(晶文社)も読めていない。その点では、本作の置かれる文脈に十分に目配りするできたレビューができるとは言い難い。また、現時点では私は本作を、2週間以上も前に、メモも取らず劇場でまだ1回観たきりである。

 ただ、一方でこの10年ほど――一番最初に、短めの作家論を書いたのは確か2015年だったが――、濱口竜介作品については、私は継続して著作や単発の批評などで論じてきた(1度だけだが、私が聞き手となって濱口監督と公開の場で行った対談もある)。――というよりも、私にとっては、濱口作品こそが、現代映画の可能性を考える時の、ひとつの理想的なモデルであり続けてきた。

 それゆえここでは、濱口のフィルモグラフィを振り返った時、本作が『ハッピーアワー』(2015年)から約10年、そしてアカデミー賞、カンヌ映画祭、ベルリン国際映画祭でそれぞれ受賞し、その世界的名声を確立した『ドライブ・マイ・カー』(2021年)、『偶然と想像』(2021年)からちょうど5年という節目の作品であることを、まず考慮したい。また、これから述べるように本作自体が、そうした感慨を半ば必然的に呼び起こす設定や作劇になっているとも言える。

 なお、劇場公開から1カ月ほどが経過しているが、本レビューは、物語の結末までのディテールに触れていることをあらかじめお断りしておく。

 本作は、2019年にがんで夭逝した哲学者・宮野真生子と臨床現場を調査する文化人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡集を原作とする。が、主な舞台がパリに変わり、主人公はフランス人の介護施設ディレクターと日本人舞台演出家に変更されるなど、原型を留めない、大胆な改変が施されている。

 マリー=ルー・フォンテーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)は、パリ郊外の介護施設「自由の庭」でディレクターをしている。彼女は、1970年代末に編み出された認知症や高齢者のケアに関わる「ユマニチュード」という介護哲学・技法を施設に普及させようとしていた。だが、そのための研修期間が逆に介護現場の人手不足を招き、彼女はベテラン看護師ソフィ(マリー・ビュネル)との衝突が絶えなかった。

 ある時、乗っていたトラムから見えた自閉症スペクトラムの青年・窪寺智樹(黒崎煌代)を追って辿り着いた19区の公園で、マリー=ルーは日本人舞台演出家の森崎真理(岡本多緒)と、智樹の祖父で俳優の清宮吾朗(長塚京三)と出会う。彼女は真理からチラシをもらい、真理が演出を手掛け、吾朗が出演する一人芝居『Da vicino nessuno é normale 近づいてみれば、誰もまともな者はいない』を観劇する。終演後のティーチインで、マリー=ルーは真理に劇の感想を伝えるが、この時、真理から彼女がステージIV、余命半年の進行がんに罹患していることを告げられる。この時から、似た名前の響きを持つ国籍の異なる2人の女性の、短くも濃密な魂の交歓が始まっていく。

既存のモティーフのパッチワーク

 まず前提として、本作が傑出した映画であることは紛れもない。

 カンヌで女優賞を獲得した主演の2人をはじめ、黒崎や長塚など俳優陣の演技も素晴らしい。2026年に公開された映画のなかでも屈指の出来栄えと言ってよい。

 とはいえ、本作が、ここ10年ほどの濱口作品の主要なモティーフや方法論のパッチワークのようにして成立している点も、気づかずにはいられない。また、それは広く(私が「ポストシネマ」と呼んできた)現代映画やアニメ全般に見られた、もはやお馴染みの特徴ともことごとく重なっている。

 まず、これまでの濱口作品を観てきた者ならば誰もがすぐに気づくように、本作もまた、「演劇(制作)」や「ワークショップ」が物語の重要なモティーフとして絡んでくる。

 すでに述べたように、吾朗が演じる一人芝居は、最初のパリの小さなシアターでの上演の際は主人公2人の急接近の場となり、後半の介護施設の庭での入所者向けの上演の際は物語のクライマックスを提供する。また、真理の介護施設での入所者を対象として始めたエクササイズをはじめ、入所者やスタッフの人となりをインタビューしていく「ヴァネッサの部屋」など、いくつものワークショップ的なシチュエーションが物語に登場する。そもそもマリー=ルーの実践するユマニチュードというケアの哲学・技法自体が、どこかワークショップ的でもある。

 前者に関しては、同じ題の舞台を作り上げ、上演する若者たちの姿を描いた4時間以上に及ぶ『親密さ』(2012年)をはじめ、いずれも柴崎友香や村上春樹の原作小説にはない、アントン・チェーホフの舞台上演のエピソードを追加した『寝ても覚めても』(2018年)や『ドライブ・マイ・カー』などの先行例があり、すでに濱口作品のエンブレムとして広く認知されているはずだ。後者にしても、中編『不気味なものの肌に触れる』(2013年)や5時間を超える最大の大作『ハッピーアワー』などが該当する。しかも、『ハッピーアワー』は神戸で濱口が主催した実際のワークショップが元となり、作中ではそのワークショップのシーンが使用されている。

 そして、同様の傾向を持った作品は、映画『カメラを止めるな!』(2018年)からテレビアニメ『映像研には手を出すな!』(2020年)まで、特に2010年代以降の映像作品のいたるところに見られる。

 私は、『明るい映画、暗い映画』(blueprint)や『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン)といった現代映画を広範に論じたこれまでの著作で、濱口作品を中心に、その問題をすでに繰り返し扱ってきた(※1)。「ワークショップ映画」と私が呼ぶこれらの作品で、濱口は、いわばフィクションとドキュメンタリー、表象と現前、映画と演劇、演技と素、完成と途中経過……といった、文化表現にまつわるさまざまな二項対立を撹乱し、「作品であれコミュニティであれ、何らかの「かたち」が生成するプロセスそれ自体をまるごと描」(※2)こうと試みる。私の読みを要約すれば、そこでは「観客もまた映画に巻きこまれながら、映画が立ち上がっていく瞬間にともに立ち会い、それを共有する」(※3)という稀有な体験がもたらされる(※4)。また同様のことは、映画批評家の三浦哲哉などによって、それ以前からも論じられていた(※5)。

 したがって、目下、巷では本作のもっともポレミカルなシーンとして語られているらしい、物語中盤の、真理がホワイトボードに図や文字を書きながら現代の資本主義と自然の問題についてマリー=ルーと議論するシーンも、私からすると、ほぼ驚くべきところはなく、これまで濱口がやってきた、一連のワークショップ的状況の設定と、ゆっくりとした時間をかけて、登場人物の関係性の変容のプロセスを追う、いつもの「プロセスの可視化」の技法の変奏に過ぎない。

 物語終盤、日本の実家に帰省した真理と同伴したマリー=ルーが、霧の立ち込める山の頂上で向き合って樹に座りながら話しているあいだに、周囲がゆっくりと明るくなっていくシーンは確かに感動的だが、あのシーンも、かつて『親密さ』で若い恋人たちが夜明けの鉄橋を歩いているうちに薄明が明けていくシーンの反復に見える。さらに言えば、資本主義と自然の問題は、信州の奥深い集落「水挽町」で暮らす父娘を主人公に、その集落に東京の芸能事務所が「グランピング」(ホテル施設を備えるキャンプ場)を開発する計画を持ち込もうとして、土地の住民たちと紛糾する顛末を描く(映画としての)前作『悪は存在しない』(2023年)の時点で、すでにはっきりと顔を覗かせていた。

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