『トイ・ストーリー』が愛され続けるワケ おもちゃが描く“アイデンティティの喪失”と成熟
『トイ・ストーリー』が描く「必要とされること」への呪縛と解放
『トイ・ストーリー』がすごい、なんて話は散々されてきた。しかし、それでも語り尽くせない凄みがあるのは、本作が観るたびに違う視点で楽しめる作品だからなのだろう。
子供の頃にビデオが擦り切れるほど観て(それに毎回付き合っていた両親はきっと当時ノイローゼになっていたかもしれない)、おもちゃを捨てられない人間として大人になった私の部屋は、相も変わらず賑やかだし、新しいお友達も増え続けている。
私に限らず、『トイ・ストーリー』は「おもちゃに対して並々ならぬ思い入れを持つ世代」を生み出した、社会現象ともいえる作品だ。なぜ、私たちはこれほどまでに登場するおもちゃたちに強く結びつきを感じ、感情移入してしまうのだろうか。それは単にウッディやバズやレックス、そのほかの登場するキャラクターがかわいかったり、物語がありえないくらい面白かったりするからという理由だけではない。
本作はあらゆる面において映画史に残る傑作だが、なによりも観る者の心を掴んで離さないのは、主役であるおもちゃたちの感情の奥底に迫り彼らの“実存的な葛藤”を生々しいまでに描き切っているからではないだろうか。
1995年に公開され、劇場公開作として世界初、フルCGで作られた長編アニメーション映画である本作は、「もし、おもちゃたちが動いて喋ることができたら」という無邪気な発想から始まっているが、その実はシリーズを通して彼らの自由意志や実存的葛藤を映し出すような、精神分析的な側面が強い(これはその後制作される全ピクサー作品に共通した特徴かもしれない)。特に第1作目から印象的に扱われているのが、「他者に必要とされなくなることへの根源的な恐怖」という、誰もが人生のどこかで直面する重い命題である。
自己の存在価値は、他者からの需要によってのみ担保されるのか。必要とされなくなることは、すなわち“愛されていない”ことと同義なのか。本作は、おもちゃというメタファーを通じ、私たちが抱える他者への依存と、自己のアイデンティティをめぐる脆さを、恐ろしい解像度で浮き彫りにしていく。
代替されることの恐怖
物語は、主人公であるカウボーイの人形ウッディが抱く、明白かつ切実な恐怖から幕を開ける。アンディの誕生日、それは新たなおもちゃの到来を意味し、既存のおもちゃたちにとっては「自分がお払い箱になるかもしれない」という死活問題である。常に自分より優れた誰かが現れ、自分の居場所を奪うのではないか。この恐怖に対し、アンディの一番のお気に入りであり、ベッドの上で眠る特権を与えられているウッディだけは当初、絶対的な安心感の中にいた。しかし、最新鋭のギミックを備えたスペース・レンジャー、バズ・ライトイヤーの登場によって、彼の自信は脆くなってしまう。
ウッディがバズに対して抱く激しい嫉妬と危機感は、単なるおもちゃのポジション争いを超え、人間が社会に対して段階的に感じる普遍的な“喪失の恐怖”を表象している。
まず最初に挙げられるのが、幼い頃に感じやすい「きょうだい間のライバル意識」(シブリング・ライバリー)」。これまで親(アンディ)の愛と関心を独占してきた長子が、突然現れた「もう一人の子供」(バズ)にその時間を奪われる。親の関心が半々に分かれたとしても、決して愛の総量が減ったわけではないのだが、未成熟な精神は「関心=愛」と錯覚し、すべてを失うのではないかという極端な不安に駆り立てられる。子供にとって最初に与えられる社会(家族)の中で感じやすい恐怖だ。そして興味深いことに、アンディにも生まれたての妹がいる。
さらに大人になって感じるであろう恐怖として挙げられるのが、「コミュニティにおける役割とアイデンティティの喪失」だ。ウッディはアンディの部屋において、単なるお気に入りであるだけでなく、他のおもちゃたちを統率するリーダー(保安官)であった。周囲から頼りにされる権威ある存在。しかし、バズが瞬く間にその役割を代替していくことで、ウッディは「リーダーでない自分とは一体何者なのか」というアイデンティティの崩壊に直面する。集団の中で同じ役割を持つ者は2人必要ないと感じさせる社会に対する恐怖である。
主にこれらの恐怖によって「自分は代替可能な存在である」と感じ、他者の評価や視点によって自己の輪郭が失われていく。そんなウッディが直面する問題は、あまりにも痛切で、リアルだ。