ライアン・ジョンソンが生み出した“反逆的探偵映画” 『ナイブズ・アウト』シリーズのテーマ

さらには、原因不明の難病になった元世界的チェリストの女性を騙して多額の寄付金を払わせる。そして、過激な政治的主張をする動画配信者に自身の説教を使うことを許すことで、神の教えを政治的な不寛容へと向かわせる道具にさせもする。まさに、宗教を使った現代の諸問題を、ここで清算するかのように、本作は宗教に特化した内容になっているといえる。
対して、今回長髪でイメチェンをしているブランは、自身を「理性の信者だ」と、ジャド司祭に紹介し、宗教を信じない理由として、「女性蔑視と同性愛嫌悪、恥ずべき行為の隠蔽」が宗教にはあるのだと指摘する。ここでの“隠蔽”とは、おそらくはカトリック教会が隠してきた、複数の教会関係者たちによる児童への性加害問題を指しているのだと考えられる。そして、「信仰というシャボン玉を、はじけさせてやりたい」と、彼らしい感情のこもった主張を続けるのだ。
しかしその正直な意見は、むしろジャド司祭の信頼を得ることに繋がったらしい。神の名を借りながら、その神聖さを利用することで力を振るい、自身の欲望を満たそうとする聖職者に比べると、たとえ無神論者であっても、正義感や倫理を大事にする人物の方が、本来の宗教的な教えに沿っているのではないのか。ブランとジャドの構図は、そんなことを主張していると感じられるのである。
本作では、やはりジョンソン監督のユーモアから、『スター・ウォーズ』についての話題がチラリと顔を出す。悪の立場にいる側が、「反乱軍みたいだろ?」と、正義の顔をする描写は、まさに不寛容が正義を名乗るといった、近年のアメリカ社会の異常性を映し出した瞬間だといえる。
ライアン・ジョンソンと『スター・ウォーズ』といえば、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)を想起せざるを得ない。そこでジョンソン監督は、前作のJ・J・エイブラムス監督のアプローチとは真逆の、作品のセオリーを次々と破る内容を用意したのだ。筆者は、『スター・ウォーズ』旧3部作の郷愁に偏重したエイブラムス監督の姿勢も、反逆に徹することで物語そのものの厚みを作ることを放棄したジョンソン監督の姿勢にも批判的な立場ではあるが、既存のシステムを破壊しようとする彼の持ち味自体には、共感する部分もある。
そう思えば、「名探偵ブノワ・ブラン」ではシリーズ全体が、アガサ・クリスティー的な群衆ミステリーに似せながら、そこでのルールを破壊していることに気づくはずだ。最も興味深いのは、中立的な立場にあって事実を何よりも優先させるのが探偵の役割だというコンセンサスを、ダニエル・クレイグ演じるブノワ・ブランが裏切る瞬間もあるということだ。
これまで名探偵というのは、犯人が誰だとしても、事実と責務をよりどころに、冷徹に職務を果たすべき存在でいることが基本だった。つまりは、秩序を守る側だといえよう。しかしブランは、自分の信じるもののためには職務すら投げだしかねない。彼なりの正義感や激情は、与えられた枠組み、システムを壊すこともあり得るのだ。これが、ジョンソン監督の生み出した、“反逆的探偵映画”の本質である。そして、第3作である本作は、そうした逸脱が“解決シーン”にまで大きく影響を与えるという点で、その徹底ぶりが窺える。
だが本作は、そしてライアン・ジョンソンは、もちろん宗教そのものが悪であるという主張はしていない。宗教の教義に疑念を投げかけるブランに対してジャドは、「宗教は確かに、テーマパークのように作り物の物語かもしれない。でもそれをただの嘘だと思うか、そこに内包されている大事な何か(赦し、愛、希望など)に共鳴するかは、人それぞれだ」という旨の主張をする。ブランはこの意見を気に入り、彼もまたジャドに一定の信頼を置くことになる。
ここで示唆されるのは、どんな立場の者たち、どんな宗教に入信していたり、もしくは無宗教である人々だとしても、そこには悪人も善人も存在するのだという、“当然の事実”である。ジャドは宗教者として、ブランは自身の理性を信じる探偵として、それぞれの立場で善行をなそうとする。そう考える人々が、さまざまな立場で増えていくことでしか、世界は改善することはない。それが本作の、そして「名探偵ブノワ・ブラン」シリーズ全体のテーマなのだろう。
■配信情報
『ナイブズ・アウト:ウェイク・アップ・デッドマン』
Netflixにて配信中


























