『イクサガミ』『今際の国』『イカゲーム』 デスゲーム作品に共通する“支配構造の変容”

近年、デスゲーム作品が再び存在感を増している。特に2025年に配信された『イクサガミ』、『今際の国のアリス』シーズン3、『イカゲーム』シーズン3という3作品を横断して見ていくと、ある共通点が浮かび上がる。
しかし、その現象を正確に捉えるためには、まずデスゲームという形式自体の歴史をいったん概観する必要があるだろう。その源流をたどれば、孤島で人間狩りが展開されるリチャード・コネルの短編『最も危険なゲーム』(1924年)や、競技の脱落者が次々と国家に射殺されていくスティーヴン・キング(リチャード・バックマン名義)の『死のロングウォーク』(1979年)といった初期作品に行き着く。

だが日本のポップカルチャーにおいて、「デスゲームもの」というフォーマットを決定づけたのは、高見広春原作の映画『バトル・ロワイアル』(2000年)。中学生たちが互いに殺し合うという壮絶設定は当時大きな衝撃を与え、「子どもに見せるべきか、否か?」という論争まで引き起こした。その後も『リアル鬼ごっこ』(2008年)、『カイジ 人生逆転ゲーム』(2009年)、『GANTZ』(2011年)などが公開され、デスゲーム的モチーフが日本の大衆レベルにまで浸透していく。
世界的な広がりという点では、ジェニファー・ローレンス主演のハリウッド大作『ハンガー・ゲーム』(2012年)が、決定的な転換点となる。若者たちが国家の統制下で殺し合いに動員されるという構図は、デスゲームを一気に世界標準の物語装置へと押し上げた。そして2021年には、Netflix『イカゲーム』が非英語圏作品として異例の視聴数を記録。経済格差という現実の社会問題を真正面から扱ったこともあり、このジャンルはストリーミング時代におけるグローバルな共通言語として再定義されるに至った。

こうした歴史的展開を踏まえると、2025年に登場した『イクサガミ』、『今際の国のアリス』シーズン3、『イカゲーム』シーズン3が示す特異点がより鮮明になる。それは、支配者がシステムの前面から退き、顔を失っていくという構造だ。
従来のデスゲーム作品では、巨大なシステムの悪は必ず人格として可視化され、受容されてきた。『カイジ』では、帝愛という匿名的な資本の暴力が、利根川というカリスマ幹部によって人格化され、『イカゲーム』初期シリーズでは、フロントマンや、真の主催者の“顔”を前面に立てることで、ゲームの残酷さを描いていた。
『ハンガー・ゲーム』に至っては、国家統制という巨大なシステム悪の頂点に、厳めしいスノー大統領という専制君主の“顔”が据えられている。主人公の反抗は、この権威主義的な顔への明確な打倒へと向かうことで、物語的なカタルシスを生み出していた。




















