『ブラック・ショーマン』が描いた2つの社会派テーマ ムラ社会と町おこしの課題とは

『ブラック・ショーマン』2つの社会派テーマ

 特殊な職業、変な性格、こだわりのある主人公が事件を解決していくというのは、東野圭吾作品を原作としたサスペンスによくあるスタイルであり、『ブラック・ショーマン』で福山雅治が演じる神尾武史は、胡散臭さを倍増させたガリレオのようなキャラクターだ。原作のキャラ像は少し違うのかもしれないが、福山が演じていることで、よりそう感じるように設計されている。

 『ガリレオ』の場合は、ドラマ版はコメディ要素が強かったのに対して、劇場版になるとコメディはそぎ落とされ、社会派な作品として扱われていただけに、久しぶりに胡散臭い福山が観られるのも貴重? とも思えるかもしれないが、そこは東野圭吾原作。やはり社会派な一面を含んだ作品に仕上げてきており、それは大きなふたつのテーマで構成されている。

 ひとつめのテーマは本音が言えない、選択できない環境。

 神尾武史は、胡散臭い部分が終始付きまとっているせいで、信用できるのか、できないのか、本音がわかり辛いのは持ち味として機能している。そしてもうひとりの主人公でもある神尾真世(有村架純)は、事件の被害者・英一(仲村トオル)と親子でありながら、同じ学校で担任と生徒という関係であったことから、次第に距離が生まれてしまい、その余韻は、卒業して大人になった後でも引きずってしまっている。

 本来、同じ学校で生徒と担任教師が親子という環境はあまりない。というか、現実的には、そうならないようにされていたり、親のいない学校を選択することが多い。しかし学校が少ない地域や小さな町、村では、人員の問題や転勤が難しいことから、そういったこともある。つまり小さい町であるが故に、選択できない環境であったことが示唆されている。

 それだけではなく、ほかの登場人物ひとりひとりの心情もよくわからない。ただこれは、描き方が弱いというよりも、あえて深堀りしないようになっていると感じた。というのも、小さな町だからこそ、噂話やゴシップはすぐに広まることも描いているからだ。

 犯人が誰かを疑うことは、噂話や他人伝えで聞いた話を情報源としていくわけだが、それは極端に言えばSNSやネット上の真相不明な声を信用している行為と同じ。つまり日本全体が小さな町のような状態であり、どこにも逃げ場がなく、本音が簡単に言えない環境になっていることが今も昔も変わっていないことが描かれているのだ。
 
 結局のところ、言葉にして相手にぶつけてみないと、真相なんてわかるはずがない。自分の頭の中で処理して「こうだっ!」と決めつけている物事は山のようにあるわけで、それをため込んでしまうと、想像や妄想がひとり歩きして、悲劇や後悔に繋がってしまうこともある。互いを知るためには、口から発せられる言葉ほど重要なものはない。そんなことはわかっているのに、行動できないのが人間の不器用なところだ。

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