『国宝』が孕むジェンダー的懸念 眼福の芸術家神話を下支えしているのは誰か?

『国宝』が孕むジェンダー的懸念 

 大ヒットを続ける映画『国宝』(2025年)。まさに眼福、至福としか言いようのない3時間だ。歌舞伎の上演シーンで繰り広げられる華麗な色彩の乱舞に息を呑むほかない。『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)のカメラで知られるソフィアン・エル・ファニの起用が生み出した奇跡的な達成と言えるだろう。

 ただし同じく貴種流離譚としての側面をもつ芸道物の古典的傑作、溝口健二の『残菊物語』(1939年)とはまったく性格を異にするフィルムであることはあらかじめ述べておきたい。対象から距離を保ち、長回しのまま息詰まるほどの粘り強さで迫ってゆく溝口の方法論とはあくまで異なるスタイルで構成されている点にこそ『国宝』の特徴が存在している。溝口が距離の強度とでも言うべき文体によって『残菊物語』を作り上げたとすれば、本作の李相日監督が選び取ったのはむしろ徹底的な距離の不在であり、ここにあるのはほとんど顔、顔、顔。このクローズアップの連発を評価するか否かは意見が大きく分かれるところだろうが、少なくとも筆者はこれを是としたい。このクローズアップが画面にただならぬ緊張感を導入していることは紛れもない事実だからだ。

 あらためて映画のあらすじを振り返っておこう。物語は1960年代の長崎、やくざの息子・喜久雄(黒川想矢)が自らの父を他の組の襲撃によって惨殺される冒頭からはじまる。だが喜久雄の歌舞伎の真似事をたまたま観ていた役者の花井半二郎(渡辺謙)はその才能に注目し彼を養子として引き取ることにする。自らの実子・俊介(越山敬達)と共に稽古に励ませ役者として育てようとしたのだ。

 あっぱれ立派な女形に成長した喜久雄改め東一郎(吉沢亮)と俊介改め半弥(横浜流星)のコンビがいかに日本一の役者になるために苦難の道を歩むのか。そのひたむきに究道的な時間のなかで犠牲にしたものは何だったのか。

 ある時は半弥が東一郎の圧倒的な技芸の力の前にどうすることもできず東一郎の恋人・春江(高畑充希)と共に出奔する(このやや唐突な出来事に説得力を与える高畑充希の存在感がすばらしい)。東一郎は東一郎で芸者との間に束の間家庭を築いたかと思えば、やくざの子供だったことが露見して干された仕事の代わりを得ようと興行元の娘・彰子(森七菜)に手をだす始末。すべてを投げ打ってほとんど駆け落ちのように舞台を離れ地方での営業に身をやつす日々は失意の連続で、彰子もとうとう匙を投げて姿を消す(ちなみに、この失意のなか営業先のビルの屋上で東一郎が闇夜に舞うシーンはおそらくダニエル・シュミットの『書かれた顔』(1995年)への残酷なオマージュだろう)。

 芸道の日々のなんと険しいことか。それがこの映画の主題である。仮にそれが人間国宝に選ばれるものだとしても。あるとき東一郎の娘は神社で手を合わせていた父の姿を見て「何を祈っていたの?」と問う。彼は微笑みながらこう告げる。「悪魔さんと取引してたんや。日本一の歌舞伎役者になれますようにって」。

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