『あんぱん』は嵩と手嶌の関係性をどう描く? やなせたかしと手塚治虫のエピソードを解説

やなせたかしと手塚治虫の関係性を解説

 『アンパンマン』で知られるやなせたかしと妻の暢をモデルにしたNHK連続テレビ小説『あんぱん』に、眞栄田郷敦が演じる天才漫画家の手嶌治虫が登場することが話題になっている。モデルはもちろん手塚治虫。絵本だけでなく漫画も描いていたやなせと交流もあったが、それはどのようなものだったのか? そしてドラマではどのように描かれていくことになるのか?

 やなせと手塚は入れ替わったとも後を継いだともいえそうな関係だ。やなせたかしの名を巨大なものとした『アンパンマン』のTVアニメ『それいけ!アンパンマン』がスタートしたのは1988年10月のこと。7%の視聴率を獲得して順調に滑り出してはいたが、世相は昭和天皇のご病状が日々取り沙汰され、年が明けた1989年1月7日に崩御されて元号が昭和から平成へと変わる激動の中にいた。

 そして1カ月ほどが過ぎた2月9日に手塚治虫が死去。1995年に刊行され、2013年に文庫化された『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)という自伝の中で、やなせたかしはこの時のことを、「アンパンマンは鉄腕アトムとすれ違った」と表現している。ただし、やなせは「もちろんぼくのアンパンマンは、鉄腕アトムとは比較にはならないマイナーな星ではあるが」と続けて、両キャラクターの間にも自身と手塚との間にも、大きな差を感じていたことを吐露している。

 今やアンパンマンは全世界で年間1500億円を売り上げる人気キャラだ。鉄腕アトムの後を継いだと言って異論を唱える人はいないだろう。それでも、手塚が存命のうちにこのキャラの生みの親だというアイデンティティを持つに至らなかったことを、やなせが歯がゆく思っていた可能性はありそうだ。

 手塚治虫より9歳年上のやなせは、1947年に高知新聞を辞めて先に上京していた暢と合流し、東京で三越百貨店の宣伝部に勤めながら漫画家として新聞などに投書していた。漫画といっても今の主流となっているストーリー漫画ではなく、大人向けの風刺漫画のようなもの。付き合っていたのも小島功や岡部冬彦(軍事評論家の岡部いさく、イラストレーターの水玉螢之丞の父)といった面々で、その中でやなせは、「大小あわせて二十五本の連載をもって」いる売れっ子漫画家になっていく。

 手塚は、そんなやなせの活動とはまったく重ならないところで活躍して名前を高めていった。やなせが上京した1947年は手塚の『新寶島』が刊行されて大ヒットを記録した年。以後、『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』といった作品を送り出して人気漫画家になっていく。1953年に移り住んだトキワ荘には、石ノ森章太郎や藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、赤塚不二夫といった面々が集まって一大勢力を形作っていく。

 その中心にいた手塚について、やなせは「ぼくも風のたよりには聞いてはいたが、それはまったく別世界のできごとで、ぼくには無関係だった」「漫画集団の大先輩達がぼくらのあこがれだったから、子供相手の赤本まんがは眼中になかった」と『アンパンパンの遺書』に書いている。手塚の人気ぶりをやっかんで、虚勢を張っていた訳ではない。当時はそうしたカテゴリー間の意識の違いが存在していたのだ。

 やなせが、「華やかな一群の後方にはるかに置き去りにされた」と感じていたのは岡部や小島、横山泰三や加藤芳郎といった存在であり、岡部や小島のように代表作がないことを「中心になるものがなかった」と嘆いている。そうした時代が『あんぱん』でそのまま描かれるとしたら、北村匠海が演じる柳井嵩と眞栄田の手嶌治虫が仲良くしたり、逆にライバルとして競い合ったりするような展開にはなりそうもない。

 そこはドラマだけあって、1946年に少年国民新聞で手塚が連載した『マアチャンの日記帳』を高知新聞にいたやなせが見たという状況を手嶌と柳井に置き換えて挿入したように、2人をライバルとして早い段階から描いていくのかもしれない。手塚を中心としたストーリー漫画が一大勢力となり、大人漫画が脇に追いやられている状況を悔しがる様子が登場するのかもしれない。

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