『イカゲーム』の結末は何を意味しているのか? シーズン3が意味づけた作品全体のテーマ

そんなゲームのバランス設定の理由は、ルールを管理するフロントマンの内面にかかわりがあったことが、本シリーズで明らかとなる。彼はかつてゲームの参加者であり、文字通り参加者たちの“寝首を掻く”ことで勝ち抜いた経験があったのである。フロントマンは、“人間は極限状態に置かれれば誰でも同じことをするのだ”ということを証明したかったのだろう。だからこそ、一連のゲームは人間性を試す意図があったし、わざわざ投票システムを導入して参加者たちの非人間性を強調しようとしたのだと考えられる。つまり、人間の本質が“悪”でなければ困るのである。
それと対照的な存在が、無垢な赤ん坊だ。ギフンはゲーム中に母親から赤ん坊を託され、ゲームをしながら守ろうとするのだ。この赤ん坊は、参加者たちの善意の助けによって生まれ、生き残り、いまやギフンの腕のなかにいる。他人の子であっても赤ん坊を助けたいと思うのは、万国共通の道徳心である。しかしここではそれだけでなく、途中で散っていった人々の思いが、その小さな身体に乗っているというのと重要な点なのだ。つまりここでの赤ん坊は、人間の“善”の象徴にまでなっているといえよう。
しかし、フロントマンの設計の通り、ゲームで生き残った者のほとんどは、自分のためなら他人のことを平気で蹴落とせるような人間ばかりとなっていく。一人以上の参加者を奈落の底に突き落とすルールで3ラウンド勝負するという、最終ゲーム「天空イカゲーム」では、悪辣な人間たちが結託して、リスクを最小限にしながら、ギフンと赤ん坊を落とそうと相談する。多勢に無勢、絶体絶命のピンチである。
ここではまさに、フロントマンの信じる悪が、ギフンの手に残された人間の善性を滅ぼそうとする構図が戯画化されているといえる。つまり一連のゲームおよび「天空イカゲーム」は、デスゲームのかたちを借りた、善と悪の代理戦争であったことが、この場面で明確化するのだ。
最終ゲームの脚本で感心させられるのは、この最悪な状況からでもギフンが勝ち残る目が出てくるという展開が、無理なく説得力を持って描かれる点だといえる。もはや参加者のほとんどが邪悪で利己主義者であるということを前提に、それぞれに悪意があるからこそ疑心暗鬼が生まれ、内紛が起こることでギフンの危機が緩和するといった、あまりにも皮肉な展開が、ここでは表現されるのである。
この勝ち残った人間たちの醜態は丸ごと、資本主義の問題が反映した、現代社会の縮図ともなっている。すでに多額の賞金を手にする目前の参加者たちは、結託して弱者を狙い撃ちにしようとする。それは、利益追求と保身にしか関心がない資本家たちがかたちづくる経済界の酷薄さ、非人間性を象徴しているようだ。そして、弱者の数が減っていくと、結託したメンツのなかからも生贄を見つけ出そうとする。これは、社会が過度な利益追求に傾いた果ての、必然的惨状だといえるのではないか。
カナダのドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』(2004年)は、こういった“企業の擬人化”を先んじておこなっている。現在の社会において大企業、多国籍企業は、もはや国家を超越するまでの存在になっているが、その目的はすでに自己の利益のみに純化してしまっているというのだ。それを人間に例えようとすれば、もはや人間性を失った“サイコパス”であり、そんな危険な存在が大きな力で社会を動かしているのが、いまの社会の実相だというのだ。
だからこそ、そこで善意の参加者たちに守られてきた赤ん坊を助けようとするギフンの行動は、そんな“非人間性”に抗う“人間性”そのものだといえる。だからこそ、最終的に行き着くギフンの選択は、この社会に対する作り手なりの、一つの回答だといえるのではないだろうか。ギフンは、決して正義そのものだといえる存在ではなかった。自らが犯した暴力の記憶を抱えたまま、しかし“人間として、”赤ん坊を未来に送り出そうとするのである。
死者の目に光と炎が宿るショットには、この非人間的な時代に、人間が人間であろうとする、燃え上がるような意志が込められている。これは、番号「124」ことナムギュ(ノ・ジェウォン)が語っていた「死んだ人間の目は人形のようになる」という言葉に対する逆説としても示される。
この結末には、否定的な意見もあるだろう。ギフンの戦いを応援してきた視聴者たちのなかには、もっと幸せなラストを用意するべきだと感じた人も少なくないはずである。しかし少なくとも、彼の行動がフロントマンの想定を超えて、たとえ一時的にでも“悪を敗北させた”こと、社会に利他的な希望を残したことは間違いない。フロントマンは、そんな善性の結晶となった赤ん坊を抱き抱える。そして、絶望の淵にあった脱北者のノウル(パク・ギュヨン)もまた、善が勝利する瞬間に、ささやかな希望を受け取るのである。
赤ん坊に託される未来。死をもって示される人間性。いずれもが、視聴者にとって決して安易な“カタルシス”にはなり得ない。第2シーズンで重くのしかかる、“社会を変えることはこんなにも難しい”という絶望的な感情が継続しながらも、それでもなお、そこで何を選び取るか、何を示すかということが、虐げられる人間に残された、ぎりぎり最後の選択であるという、リアリズムのなかでの、一つの苦い希望として、シーズン3では表現されている。
もちろん本シリーズは、善のために命を賭すべきであるといったメッセージを視聴者に投げかけているわけではないだろう。だが、悪の手がこぞって希望を潰そうとする理不尽な状況のなかで戦い続け、最後に人間らしい決意を実行に移す主人公の姿を見せることで、視聴者のなかの“利他的”な感情を呼び起こし、さまざまな問題が取り巻く社会に対する思考をうながそうとしているのは、間違いのないところだろう。
『イカゲーム』におけるソン・ギフンの物語は、ついに人間の善意を、ぎりぎりの境地で証明するところまで描ききった。ファン・ドンヒョク監督は、デスゲームの残酷さをエンターテインメントとして消費するだけでなく、社会の問題を描く、人間の希望を描くという、おそらくは自身で設定しただろう核心からブレずに、『イカゲーム』を完成させたのである。そこには、圧倒的な視聴数に相応しい内容があるといえる。
さて、本シリーズの最後のシーンでは、ある驚きとともに、英語版の『イカゲーム』製作の可能性が提示される。報道によれば、デヴィッド・フィンチャーが監督するのではないかと噂されている、新たな『イカゲーム』にも、また別の期待を寄せたいところだ。もちろん、企画が成立するか、最終的な座組がどうなるかは未知数である。だが、いずれにせよ、新たな『イカゲーム』が生み出されるのだとするならば、そこで本シリーズが描いた人間性のテーマに、再びライトがあてられるはずである。
■配信情報
Netflixシリーズ『イカゲーム』
Netflixにて独占配信中
出演:イ・ジョンジェ、イ・ビョンホン、イム・シワン、カン・ハヌル、ウィ・ハジュン、パク・ギュヨン、パク・ソンフン、ヤン・ドングン、カン・エシム、チョ・ユリ、チェ・グッキ、イ・デヴィッド、ノ・ジェウォン、チョン・ソクホ、パク・ヒスン(特別出演)
監督・脚本・プロデューサー:ファン・ドンヒョク

























