映画『ブリジット・ジョーンズ』シリーズを原作小説とともに総括 最終作で終えた“役割”
そうした事情もあり、ブリジットが妊娠する騒動を描いた映画の3作目『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』は、まだマーク・ダーシーが生きていた頃のオリジナルの物語を採用している。ここが少しややこしいのだが、原作者はその映画3作目に合わせ、番外編として時系列を戻した内容の新作小説を書いてもいる。そして、今回満を持して、一部において不評だった3作目の小説を映画化した、映画4作目である本作が製作されたのである。
原作に沿った内容であるため、小説版3作目で不評だった部分は、本作でも引き継がれることとなった。その不満を解消するため、今回もコリン・ファースをキャスティングし、「マーク・ダーシーの魂」を演じさせていると考えられる。そしてもちろん、ヒュー・グラント演じるダニエルも、身体の不調に悩みながらも、プレイボーイぶりを継続し、ブリジットにある意味での勇気を与えている。
非常に面白いのは、2人の子どもたちの育児に追われるブリジット・ジョーンズを助ける、“完璧なベビーシッター”クロエ(ニコ・パーカー)の登場だ。彼女は、シッターとしての理想的なはたらきをするだけでなく、ブリジットと比較すると、大人の考え方をする年下の人物として描かれている。かつて、保守的な考えに反発していたブリジットだったが、そんな彼女が保守的に見えるまでに、クロエは政治的、社会的に“より正しい”進歩を見せるのである。
映画でも多様性が重視されるようになってきた、いまの目で観ると、『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズには、これまで人種的、ジェンダー的なマイノリティをステレオタイプに描いたり、あくまでサポート役に限定するなど、重視してこなかったという問題が浮かび上がってくる。新しい女性像を描きつつも、その進歩性は、キャリアアップを果たした中流階級の白人女性の枠のなかにとどまっていたといえるのだ。本作のクロエが提供するのは、時代を一部で切り拓きつつも保守性を宿していたブリジット像を見つめる、新世代の現代的で客観的な視点だといえる。
そんな過去シリーズのあれこれを引きずりながらも、本作では「息子の理科教師」のウォーラカー(キウェテル・イジョフォー)という、白人以外の人種の人物がブリジットの人生を大きく左右する恋愛の相手として登場したことが、シリーズ中において画期的な部分だったといえるだろう。もちろん、そんな展開は現在ではありふれていて、指摘する方に偏見があると言われそうだが、小説の第1作が発表された1990年代のロマンス作品の傾向を考えれば、このシリーズでの同種の試みには意味があるといえよう。
シリーズを通して、数々の奮闘や騒動、さまざまな恋愛や悲劇をくぐり抜けたブリジット……いまでは彼女は、ダーシーの魂に見守られ、子どもたちと愛情ある関係を築き、新たに女性として自分を愛するパートナーと巡りあった。そんな彼女に祝福を送りたくなる一方で、「シングルトン」であることがブリジットの存在意義であり、シリーズ存続のためにパートナーとの破局や死別を設定しなければならなかったことを考えれば、この終着は、シリーズの終わりを決定づけるものだということを痛感せざるを得ない。
いまだに彼女の本質は、第1作で人生に迷い、煙草をふかしワインをがぶ飲みして、自室で泣きながら「All By Myself」を口パクで歌うタイトルシーンにこそあるというのは間違いない。しかし、現在と過去を繋ぐ時代を、同じ課題に悩みながら生きる観客の共感を誘い、支えとなってきたブリジット・ジョーンズは、本作『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』をもって、小説とともにその役割を終えたといえるだろう。
参考
※ https://www.the-independent.com/voices/comment/i-was-working-for-the-independent-when-i-started-writing-bridget-jones-a6953156.html
■公開情報
『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』
全国公開中
出演:レネー・ゼルウィガー、キウェテル・イジョフォー、レオ・ウッドール、コリン・ファース、ヒュー・グラントほか
監督:マイケル・モリス
脚本:ヘレン・フィールディング、ダン・メイザー、アビ・モーガン
製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、ジョー・ウォレット
原作:『Bridget Jones : Mad About The Boy』ヘレン・フィールディング著
製作総指揮:ヘレン・フィールディング、レネー・ゼルウィガー、アメリア・グレンジャー、サラ=ジェーン・ライト
配給:東宝東和
©2025Universal Pictures