『名もなき者』はディランの“成熟”をどう描いたのか? “個人”的な音楽と大衆化との葛藤

音楽の「ままならなさ」への葛藤

 『名もなき者』が評価されているのはディラン自身の内面の葛藤と、大衆からの受容のされ方との間のすれ違いや矛盾をうまく捉えているためだろう。カート・コバーンもそうであったように、あまりにも突出しすぎたアーティストは往々にして自分の意図通りにその音楽を受け取られない。過度にアイドル化されてしまい、真に自身の表現したかったことがポピュラリティの中で見失われてしまう。それは自身の音楽がいかに受容されるかという話に限らず、彼ら自身がどう受け止められるかについても同様だ。自身の音楽性とは異なっていつまでも成熟しない人間性もあって、ディランは人間関係で大いに苦しむ。恋人との(何度もの)破局に限らず、ジョーン・バエズやピート・シーガーとの軋轢、レコード会社との衝突を重ねながら、それでもやはり彼らと音楽を奏で続ける。いくら音楽界の慣習や風潮に抵抗したくとも、結局はそれらに依存しながら歌わざるを得ない。この資本主義リアリズム的なジレンマの中で苦しみながらも、しかしディランは商業的成功と同時に音楽上の革命を達成する。

 ガーディアン紙が書くように(※)、この映画は典型的な「人気が出る→挫折する→乗り越える」の構造を取らない自伝映画だ。ディランは常に人気を高め、評価され続けてきた。キャリア的な意味での挫折を経験しなかったその人生の中でコンフリクトを描くとなれば、彼自身の問題、彼自身が体験した葛藤でしかありえない。加えて、本人自身は本作の時点から現在に至るまで(1966年の事故や発言に伴うトラブル、人間関係などを見ても)あまり人間として成熟しているとは言いづらく、成長したとすればそれはつねに音楽においてだった。だからこそこの映画は本当の意味で「自伝映画」であり、「音楽映画」なのだ。

 『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』や『時代は変る』など初期のアルバムに象徴されるように、ディランはそのキャリアを「若きプロテストソングの旗手」として開始した。現代で反体制というと多くの場合パンク・ロックなどを想像しがちだが、その実これは当時フォークによく見られる性格だった。ヒッピー文化が大きくフォークの影響を受けていることからも分かるように、フォークは厳しい時代において平和と反差別を希求する音楽だった。ゆえに、ワシントンの大行進や難民救済コンサートで歌う彼の姿は多くのアメリカ人の目にアイコニックに映った。けれど彼は当時から一貫してそのことを嫌っており、自身の関心は常に個人的なことにある、とインタビューなどで繰り返している。周知の通り、ディランは2016年に歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞しているが、表彰の発表から受賞の受け入れまで彼は2週間ほど沈黙していた。ここでの消極的な態度にも見てとれるように、彼は結局のところ自分自身のために音楽をやっているのであり、祭り上げられるために弾いて歌っているのではない。彼の音楽には常にその葛藤が着いて回っている。

 シャラメの憂鬱で思索的な表情はそれを見事に捉えている。常に内の世界に籠っていて、それは周りからすれば時には狂気的な執着に感じられ、時には極度のナルシシズムのように映る(ジョーン・バエズの部屋を訪れるシーンなどを思い返されたい)。そこから溢れ出すメロディと文学的な歌詞に聴衆は熱狂するが、ディランにはどうしても表層的に受容されているに過ぎないように感じられてしまう。この終わらない循環が彼の葛藤と音楽を生み出し続けているのだ。

 全編を通して本作では彼が当時の音楽に与えた影響や彼が経験した問題の数々が描かれるが、私はその中でディランに対して何か言葉にできない得体の知れなさを感じた。シャラメの感情のはっきりしない演技や演奏における唐突なアドリブなどからずっと彼の印象を掴み損ねてしまうような感覚があった。今にして思うと、その「得体の知れなさ」こそ彼の変化に満ちた音楽的キャリアの原動力となる絶えざる内面の葛藤からくるものだったのだろう。

ネヴァー・エンディング・ディラン

 フォーク愛好家たちからのブーイングを受ける最後のパフォーマンスが印象的だが、結局、彼はその後もより広い層にリーチしながら人気を高め続ける。作中でも、彼がその後再登壇しアコギで演奏した際に観客が態度を急変させるが、そこからも理解できるように音楽とは暴力的なメディアだ。極言すると「ノれれば良い」のが音楽だから、いくら言葉と音楽表現を尽くして表現しても、それが意図通りに受け取られるとは限らない。だから必ずしも思い通りにはいかない──むしろ思い通りに行かないことのほうがずっと多い。

 それでもボブ・ディランは歌を歌い続ける。己の内面と向き合い続け、溢れ出す言葉をひとつひとつ紡ぎながら音楽的成熟を遂げ続ける。数多の人間との出会いや決別、今とは別種の過酷さに覆われた時代背景、それから重要なライブの数々を通し、『名もなき者』は葛藤と矛盾の中で音楽を生き、音楽に生かされる偉大なひとりのアーティストのその苦悩を繊細に描き切っている。だが同時に、その苦悩に対する答えをディランはとうの昔に知っていた。

 答えはつねに、風の中に吹かれている。かつて通い詰めたあのダイナーが潰れた今も、私はその思い出を好き勝手に投影しながらディランを聴き続けるだろう。

※参考
https://www.theguardian.com/film/2024/dec/10/a-complete-unknown-review-timothee-chalamets-bob-dylan-is-an-electric-revelation

■公開情報
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』
全国公開中
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、ダン・フォグラー、ノーバート・レオ・バッツ、スクート・マクネイリー
監督:ジェームズ・マンゴールド
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
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