『あんぱん』のモデル・小松暢&やなせたかしとは? 夫婦の激動の生涯をたどる

 高知で暢と出会い、暢を追いかけるように上京したやなせは、暢の部屋に転がりこむ。やなせは日本橋三越に就職して宣伝部でグラフィックデザインの仕事を始めた。猪熊弦一郎がデザインした三越の包装紙「華開く」の「mitsukoshi」のレタリングはやなせの手によるものである。

 その後、やなせは漫画家として独立。「いざとなったらわたしが食べさせてあげる」と独立を後押ししたのは暢である。ただし、漫画家のとしての仕事は細々としたものであり、一世代下にあたる手塚治虫らの活躍を眩しく眺めていた。何でもできる器用さと頼まれたら断れない優しさがあったやなせは、「困ったときのやなせさん」として業界で知られ、さまざまな仕事をこなした。暢はクリエティブな仕事以外一切できなやなせの代わりに、経理と雑務など一切を請け負った。

「ぼくは自分の仕事以外は、全部カミさんに頼っていた。散髪も時にカミさんにしてもらった。ぼくが病気になると、自分の髪をばっさりとショートカットにして、全力をかたむけて看病してくれた。実にたよりがいがある」『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』より

 ラジオドラマのために1日で書き上げた台本『やさしいライオン』が好評を博し、手塚のもとで短編アニメを制作して高い評価を得た。出版社のフレーベル館から同題の絵本を出版し、これも版を重ねた。版元から「もう一冊」と頼まれたやなせが描いた絵本が『あんぱんまん』である。このとき、やなせは54歳だった。

 弱くてもいい。ケンカも強くない。巨大な悪も倒せない。大きい力は暴力を生む。だけど、弱っている人には手を差し伸べられる。お腹が空いている人に食べ物を分け与える。それこそがひっくり返らない正義だ。一人ぐらいそんなヒーローがいてもいい。そんなやなせの思いから「アンパンマン」は生まれた。

 当初は頭部を食われたまま空を飛ぶグロテスクな姿が酷評されていた『あんぱんまん』だが、やなせは自分が編集長を務める雑誌『詩とメルヘン』で細々と連載を続けた。版元の山梨シルクセンターは、どうしても戦争をなくしたいという思いで山梨県庁を辞めた辻信太郎が立ち上げた社員3人の小さな会社だった。後のサンリオである。

 いずみたくが面白がって『アンパンマン』はミュージカルになった。ここから敵のばいきんまんが誕生した(「ハーヒフーへホー」というかけ声もこのとき生まれた)。『あんぱんまん』の絵本は大人に嫌われたが、子ども相手にじわじわと売れ続けた。紆余曲折を経て、アニメ『それゆけ!アンパンマン』(日本テレビ系)が始まったのは1988年。やなせは69歳になっていた。

 この頃、やなせと暢はふたりで新聞の取材を受けている。記者に「人生を振り返ることはあるか」と尋ねられた暢は、こう答えた。

「ないこともないですけれど、振り返ったって戻ってきませんでしょ。だから、いつも前向き」『高知新聞』より

 いつも前向きに走り続けた「韋駄天おのぶ」「ハチキンおのぶ」は、1993年11月にその生涯を閉じた。ふたりの生涯が『あんぱん』でどのように描かれるのか楽しみだ。

参考
やなせたかし・著『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫
やなせたかし・著『人生なんて夢だけど』フレーベル館
梯久美子・著『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』文春文庫
伊多波碧・著『やなせたかしの素顔 のぶと歩んだ生涯』潮文庫
『高知新聞』やなせたかしさんの妻、若き日の姿 朝ドラ「あんぱん」の主役モデル、小松暢さん 高知新聞社の元同僚の日誌に登場
『高知新聞』朝ドラ「あんぱん」ヒロイン モデルの小松暢さん 父は高知県安芸市出身で鈴木商店に勤務 釧路の発展に貢献

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