『今日は少し辛いかもしれない』はただの“難病もの”ではない あまりに尊い“愛の回復”

 古今東西、“食”は大衆から親しまれるひとつの文化で、最近の言い回しをするなら「コンテンツ」である。グルメ、食べ歩き、大食いと食への興味は人それぞれだが、とにかく誰もが食べなければ生きていられない。突然末期の大腸がんを宣告された出版社社長の妻・ダジョン(キム・ソヒョン)と、彼女のために料理を作る作家の夫・チャンウク(ハン・ソッキュ)、その周囲にいる人々の物語『今日は少し辛いかもしれない』は、食べることをメインテーマにしたヒューマンドラマだ。なおかつ、ドラマをはじめフィクションでは王道として毀誉褒貶相半ばしがちな“難病もの”。しかし見終わった後、ストーリーラインへの予想は覆され、新鮮な感動と涙に包まれるはずだ。

※本稿は最終話までのネタバレを含みます

 ダジョンとチャンウクの仲は完全に冷え切っていて、大学入学を控えた一人息子ジェホ(チン・ホウン)も父を疎ましそうにする。崩壊しかけた家族関係の中、今まで一度も料理したことがないチャンウクはダジョンのために自ら食材を調達し、健康によいレシピを試行錯誤していく。人文学作家カン・チャレの実体験を著した同名エッセイをドラマ化した本作は、釜山国際映画祭の新作ドラマを短く編集したバージョンを披露する「オンスクリーンセクション」に招待され、第21回ディレクターカットアワードシリーズ部門にもノミネートされるなど韓国では注目を集めた。

 劇中、丁寧に作られた料理が食卓を彩る。チャプチェ(春雨の炒め物)、タンスユク(韓国式酢豚)、サムギョプサル(豚ばら肉の焼肉)と有名な韓国料理から、チェジュ島名物トンべ麺(肉ともに供される麺)、徐々に消化吸収ができなくなったダジョンのための特製野菜ジュースと実に豊富だ。手がけたのは、韓国の映画やドラマのフードコーディネートを多く引き受けているクミンというチームだった。担当したキム・ミンジは登場する料理を担当するにあたり公式SNSで「料理をどう解釈するのか、そもそも“デザイン”ということが必要なのか」という悩みをつづっている(※1)。たしかにチャプチェひとつ取っても塩分を抜いた無塩チャプチェであり、タンスユクにも野菜がたっぷりで、身体を第一に考えた病人のための食事になっている。

 イ・ホジェ監督は「消化器系のがん患者が何かを食べられる日は珍しくない」と語っている(※2)。かくいう筆者も6年ほど前に母を末期の胃がんで亡くしているが、告知されてからもキムチを美味しそうに食べていたし、もうできる治療はないと医師に言われた最後の1カ月の間に、何度も肉料理を口にした。なのでダジョンの食生活は、がん患者の食事事情についてかなり解像度が高い演出になっている。

 エピソード8「オーガニックサムギョプサルの効能」で登場するような脂肪の多い三枚肉を消化できるとは思えないが、体が弱り先細っているとはいえ、食欲までが制御されるのではない。タイトルにもなっている“辛さ”を象徴する食材が、唐辛子の一種、プリッキーヌだ。エピソード1「チャプチェの涙」で、無塩では味気ないだろうと思ったチャンウクが、チャプチェに辛みを加えようと入れた。唐辛子の辛さを数値で表した指標スコヴィル値で、プリッキーヌは50,000以上を示す。一般的な韓国の唐辛子は20,000とさほど辛くないので、あまりの辛さにダジョンは目を白黒させて思わず笑ってしまう。

 抗がん剤の副作用に口内炎があることから、一般的にがん患者には辛い物を食べさせない方がいいと言われる。ただダジョンも「食欲が刺激されたわ」と笑顔で食べ進めていたように、同じく副作用である味覚障害に悩まされた方の中でも、カレーライスなら食べられたという声もある(※3)。当然の話だが薬物治療の効果は絶大である。一方で人間が根源的に持ち合わせていて、生きていく欲求に等しい食欲は、医療行為の効果を逸脱して病を癒やすことがあるのかもしれない。辛味というのは、実は味ではなく痛覚だ。痛覚を刺激するプリッキーヌの辛味は、家族を喪失するという本作の通奏低音としての痛みであると同時に、ダジョンが初めて美味しそうに食べた幸福の象徴でもある。

 チャンウクはカルチャースクールで講師を務める有名翻訳家で、ダジョンに作る料理について日々ブログで綴っている。いわゆる“書く人”であることも、ドラマの味わいを深くしている。アーサー・W・フランクの著書『傷ついた物語のための語り』には、「他者の声を聴くことによって私たちは自らの声を聴くのだということを私は示したいと思う。物語の証人となる瞬間に互いが互いを必要とする関係が結晶化する。その時、それぞれの人間は、他者のためにあるのだ」とある(※4)。もちろん、話すことでダジョンが回復するわけではなく、チャンウクの苦痛が癒やされるのも一時のことかもしれない。それでもチャンウクが物語り、他者に対し自分の苦痛をオープンにひらいていく自己治癒は必要なことだ。そこで得た癒しがまたダジョンへ帰っていく。

 そしてドラマの語りはチャンウクのブログの筆致のように静謐に展開していくが、そこにはイ・ホジェ監督の“苦痛を見せびらかすように展示することを避けたかった”という思いがある。「韓国で病気の方々とその家族がどれほど大変な日々を送っているか知っているが、それを細部に渡り長く見せるのが正しいのか」と悩んだ監督が取った表現手段が、“悲しいシチュエーションコメディ”。つまり、がんや患者、家族がいる日々の中で生まれる食い違いを笑いの要素とすることだ。苦しい病気を笑うなんて、という方もいるかもしれないが、筆者が母を看病していた頃も、どうでもいいことで喧嘩したことや、拍子抜けするコメディのようなときもあり、すべての時間が悲しみと苦痛だったわけではない。この作品はがんという病気と人間の日常のリアリティのバランスを上手く取っていると感じた。

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