『名もなき者』が解き明かすボブ・ディランの音楽の“魔法の秘密” 作品のテーマを徹底考察
本作のストーリーを追っていくと、ディランの無軌道さや、自分の気分を優先することで他人の心を考えない不誠実な態度に反感をおぼえる部分があり、ここでの反逆的行動は、なかでもとくに残酷に感じられる。ピート・シーガーは、ディランをデビューさせてくれた恩人なのだ。彼の願いはただ一つ、フォークフェスのトリとしてディランに、聴衆の心を一つにするようなフォークソングを歌ってほしいというもの。その要求は、悲しくなるくらいにささやかなものだ。しかしディランは、その気持ちを踏みにじる。そしてラストでは、心酔していたはずのガスリーにも別れを告げて、オートバイで走っていく。なぜマンゴールド監督は、この非人間的とも思える部分をクライマックスとし、ラストにしたのだろうか。
その答えは、“風に吹かれている”わけではない。それではクライマックスへの疑問を基に、はじめからディランの描かれ方を振り返ってみよう。彼は「サーカスで暮らしていた」などとホラを吹き、自分の過去を話さないように努めていた。この秘密主義の理由は、安易に規定されイメージされたくないという感情の表れだろう。そして、それまでの自分自身に、語るに足るものがないという判断もあったのかもしれない。そう考えれば、遠いミネソタからヒッチハイクでニューヨークへと辿り着いたときの、いかにもな“放浪者”の格好や態度は、ある種のコスプレめいたものにも見えてくる。
なぜ若きディランはそこまで放浪者に憧れていたのか。それは、信奉するウディ・ガスリーが、やはり若い頃から日雇い労働者としてアメリカ国内のさまざまな地を巡ることで表現の下地を得たからだと考えられる。彼自身が貧しい労働者であり、さまざまな土地に滞在したことで、アメリカ国内の労働者、貧困層の声を代弁するという、強い原動力が生まれたのである。つまり、ディランもガスリーのような放浪者になりきることで、彼が手にしたような“魂”を得ようとしていたのではないか。
放浪のなかで“魂”を獲得するという考え方は、ディランだけのものではない。例えばTVアニメ『ザ・シンプソンズ』のエピソードに、「魂を売っちゃったバート」(Bart Sells His Soul)というエピソードがある。いたずら好きな少年バートは、軽い気持ちで「バートの魂」と書いた紙を、友人に5ドルで売り渡してしまう。はじめは魂の存在など迷信だと考えていたバートだったが、時間が経つとだんだん不安になってくる。そして一秒でも早く魂を買い戻したいと、魂を求めて夜の街を彷徨い始める。
エピソードの最後で、バートの妹リサは教訓を語る。「いい? バート。多くの哲学者が信じるように、人は誰も魂とともには生まれないの。お兄ちゃんが昨日の夜したように、苦しんで、考えて、祈ることで手に入れるものなのよ」……これは、「人間の本質というものは、あらかじめ決められたものではなく、現実に在ることが先行した存在であり、だからこそ人間は自ら行為を選び取って自分自身で意味を生み出さなければならない」という、哲学における実存主義的な考えに呼応したものだ。そしてそれは、漂白者になることで本物の表現者の魂を得ようとしたディランの彷徨への意欲にも繋がるのである。
また、作家ヘルマン・ヘッセの著作『漂白の魂(クヌルプ)』も、流浪し続ける芸術家の魂を描き出した作品だ。この小説では、魂は人間の存在とともに生まれるものではなく、獲得していくものだということが語られ、魂と放浪についての考えが述べられる。
「ぼくは両親の子で、両親に似ている、と両親は考える。だが、ぼくは両親を愛さずにはいられないとしても、両親にとっては理解できないような未知の人間なのだ。ぼくにとって肝心なもの、おそらくぼくの魂であるものを、両親は枝葉のものと考え、ぼくの若さあるいはむら気のせいにする。それでもぼくをかわいがり、あらゆる愛情をつくしてくれるだろう。父親は子どもに鼻や目や知力をさえ遺伝としてわかつことができるが、魂はそうはできない。魂はすべての人間の中に新しくできたものだ」
ーーヘルマン・ヘッセ「クヌルプ(漂白の魂)」 高橋健二訳ーー
人生の経験のなかで、そして旅のなかで新しく変化していく魂。それは「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞に歌われる「転がり続ける石」そのものだ。ディランが、聴衆を怒らせ恩人を悲しませても頑なに自分の“気分”を優先することを貫いたのは、絶えず変化し続ける自分の魂の声から自然に紡ぎ出されるものを届けることが表現だという信念ゆえではないのか。そして、そこに決して嘘がないからこそ、彼の歌詞には多くの人々の心を動かす魔法のような力があるのではないのか。もし人間関係や義務感を優先して、いま歌いたくはない「風に吹かれて」を歌ってしまえば、彼の魔法は無惨に解けてしまうのかもしれない。
もちろん、だからといってピート・シーガーやジョーン・バエズの音楽性が偽物だということではないだろう。彼らもまた、自分の心に従い、信念を持って歌うことを貫いたアーティストである。彼らに影響力のある誰かが、「信念を捨てて体制に屈服せよ」と命じたとしても、決して応じることはないだろう。ただディランの音楽性が、そして彼の心の声が、ジャンルの面や思想の面でも、変化し続け移動し続ける“放浪者”であることを望んだというだけのことだ。
そう考えればラストシーンにおける、一見酷薄とも思えるガスリーとの決別にも、新たな見方をすることができる。ウディ・ガスリーもまた「漂白の魂」を持ってアメリカをさすらったアーティストである。だからこそディランは、彼を心の師と仰ぎ、彼を称える歌を歌ったのである。そして今度は、自分の心に従って、ガスリーの通った道を逸脱し、新たな方向へと走り出すのだ。それは決して、ガスリーを裏切ることを意味するものではない。なぜなら、放浪し続けることがガスリーと自分の共通点であり、表現者としての本質だからである。
「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」
ーーヘルマン・ヘッセ「クヌルプ(漂白の魂)」 高橋健二訳ーー
ディランは風や時代に運ばれながら、誰にも規定されイメージされることのない「名もなき者」としての声を頼りに、新たな場所へと、自分のかたちを変えながら転がり続ける。ジェームズ・マンゴールド監督とティモシー・シャラメは、このディランの魂の姿を、そのままラストシーンで表現し、ボブ・ディランの音楽性と生き方、そして彼の音楽が持つ魔法の秘密を、ついに解き明かしたのである。
■公開情報
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』
全国公開中
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、ダン・フォグラー、ノーバート・レオ・バッツ、スクート・マクネイリー
監督:ジェームズ・マンゴールド
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
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