『グラディエーターII』はいま世に送り出す意義のある続編に 前作からのブレないメッセージ
巨匠リドリー・スコット監督が、古代ローマの剣闘士(グラディエーター)を題材に、大ヒットを達成した歴史アクション大作『グラディエーター』(2000年)。ラッセル・クロウが演じた、奴隷の身分に落とされ剣闘士となる悲運の将軍マキシマスが繰り広げる命がけの戦闘と、高潔な魂を熱く描いた作品であり、歴史巨編『ベン・ハー』(1959年)や『スパルタカス』(1960年)の興奮を思い出させ、再び歴史ジャンルに対する世界の観客の注目を集めることとなった。
そんな『グラディエーター』の正統続編となる『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』が、約24年の時を超えて劇場公開された。もちろん監督は、リドリー・スコット。新たな主人公となるマキシマスの息子ルシアスを、若手の演技派ポール・メスカルが演じ、その母親を前作に続いてコニー・ニールセンが務めたほか、デンゼル・ワシントン、ペドロ・パスカルら人気俳優が重要な役を担当している。
近年、過去のヒット作品の続編企画が多くなっているハリウッド映画だが、そのなかでも本作『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』は、とくにいま世に送り出す意義を持った続編だといえるかもしれない。ここでは、そんな本作の内容から、その理由を掘り起こしていきたい。
本作の主人公ルシアスは、ローマの英雄マキシマスの息子でありながら、少年時代に母ルッシラの手によって亡命した、前作の主人公同様に架空の人物。彼は、成長したのちにヌミディアで防衛軍とともにローマ軍の侵略に抗っていた。しかし、ローマの将軍アカシウス(ペドロ・パスカル)率いる軍船に敗れ、妻をも失ってしまう。失意のなかローマまで連れてこられたルシアスは、かつての父親と同じように奴隷として扱われ、奴隷商人マクリヌス(デンゼル・ワシントン)に買われてコロセウム(円形闘技場)で剣闘をさせられることとなる。
主演のポール・メスカルは、前作の主演俳優ラッセル・クロウと比べると柔和な雰囲気で、剣闘士仲間を演じる俳優たちと比べても小柄な印象がある。彼が演じるルシアスは、当初はローマそのものを深く憎んでいたものの、やがて責任感と理性とともにローマを救おうとする複雑な役柄だ。舞台劇や印象的な映画作品で高い演技力を見せ、名声を高めている俳優でありながら、娯楽映画の分野ではまだ十分なキャリアを積んでいるとは言い難いメスカルを、歴史超大作の主演に選んだというのは、一つのチャレンジだといえる。
前作同様、やはり本作の中心にあるのは、あくまでコロセウムを舞台としたスペクタクルであることは確かだ。本シリーズでは、奴隷制の悲惨さや剣闘の残虐さを否定するテーマが設定されているのにもかかわらず、殺し合いを「見世物」として楽しんだ、かつてのローマ市民のように、観客もまたアクションシーンを期待し、映画がそれに応える構図になっている。この、ある種の矛盾が内包されている部分こそが、本シリーズの大きな特徴といえるだろう。
なかでも、コロセウムに水を張り、剣闘士が船に乗り込んで戦うチーム戦である、史実を基にした「模擬海戦」は、当時のビッグイベントであったとともに、本作の大きな見どころでもある。最大12台のカメラで同時撮影されたという、狂気のスペクタクルは、アクション映画と古代の残酷なショーとの類似性を、観客に突きつける。
前作も手がけているプロデューサーのダグラス・ウィックは、古代ローマの多くの道がコロセウムに通じているという調査結果を得たことが、本シリーズのはじまりになったと語っている。「すべての道はローマに通ず」という慣用句があるが、そんなローマの中心に据えられているのがコロセウムだというのである。それは、当時覇権を握ったローマという都市国家の最大の求心力が、血みどろの「サーカス」であったことを指し示しているのかもしれない。
そんなコロセウムでのイベントに対する市民たちの熱狂が、皇帝の立場をも脅かすという点が、本シリーズの興味深い点なのだ。本作でも、双子の兄弟皇帝であるゲタ帝(ジョセフ・クイン)、カラカラ帝(フレッド・ヘッキンジャー)が、コロセウムの人気を利用しながらも、やはり同時に驚異をも感じるという構図が示されている。