『春になったら』は死生観を問う作品に 奈緒と木梨憲武が紡いだかけがえのない時間

『春になったら』は死生観を問う作品に

「お父さんも今日の主役だからね」

 2024年3月25日。柔らかな陽ざしが川面に反射して、風が頬をなでるそんな春の日。『春になったら』(カンテレ・フジテレビ系)最終話は、幸せな家族の記憶を永遠にとどめる一日となった。

春になったら

 瞳(奈緒)の結婚式当日。娘は一足早く家を出た。雅彦(木梨憲武)が姉のまき(筒井真理子)に連れられて玄関を出ると、そこには予想外のサプライズが待っていた。理想の結婚式と理想の生前葬。その二つを同時にかなえたら、こんな式になるのではと思わせる心づくしのセレモニー。自分を知る人たち、ふだん会えない人に会える。それがこんなに嬉しいとは。何から何まで手作りの式は、優しさがあふれて皆の笑顔がまぶしかった。

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 その時は静かに訪れる。旅立ちの瞬間を本作はあえて描かない。それが故人の遺志であるかのように、残された家族は先に逝った人をそっと悼んだ。家主の不在を物語るがらんとした家で、瞳は雅彦の人生ノートを開き、渡されたDVDを観た。第1話冒頭のホームビデオに映っていた人はこの世界にいない。いや一人いた。自分が誕生した瞬間を見る瞳の目に、自然と涙がこみ上げる。この人たちがいたから、自分はここにいる。ここにいて、生きて、新しい命を育んでいく。命がつながっていくことの奇跡が伝わり、忘れていた感情を思い出させた。

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 日常は続いていく。映画のような最終話は、そこにあった温もりと余韻を確かめるように、それぞれの人生を刻んでいく。49日を前にして、主治医の阿波野(光石研)はまきと語り合う。岸(深澤辰哉)は美奈子(見上愛)の想いを受けとめた。一馬(濱田岳)と同居しはじめた瞳は、龍之介(石塚陸翔)と3人で食卓を囲む。雅彦はもういない。でも不思議と寂しさはない。なぜなら、雅彦が今でもそこにいるように感じられるからだ。

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 生と死が一本の線でつながっている、という本作のコンセプトを聞いたとき、ずいぶん難しいことに挑戦すると感じた。ドラマで死を描く、それも終末期のがん患者の死にざまを取り上げることは、下手をすれば死を冒涜するものとも受け取られかねない。それに加えて、娘の結婚を並行して描くと知って、最終的にどんなゴールになるか予想がつかなかった。

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 けれども、その心配は杞憂に終わった。『春になったら』の制作チームは、出演者とスタッフが一丸となって、繊細なストーリーを一コマ一コマ丁寧に紡ぎ、映像を通して、大げさではない感動を目の前に現出させた。よくある余命ものやお涙頂戴ではなく、誰もが人生で経験する喜びや悲しみ、日々の不安や葛藤を、家族ならではの真情と今を生きる一人ひとりのドラマとして差し出した。

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 その最大の立役者が、主演の奈緒と木梨憲武であることは言うまでもない。感情のほとばしりを文学的な情緒にくゆらせ、臨機応変なアイデアとポップなキャラクターの魅力を備える奈緒は、今作ではどちらかと言うと「受け」の芝居が多かったように思う。それでも、ポイントとなる場面で期待にたがわない集中力を発揮し、演技から目を離すことができなかった。パートナー役の濱田岳とともに今作のトーンを決定づけた。

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