『セクシー田中さん』何度も思い出したい名シーンの数々 “世界”を面白くする大切なこと

「正解がないから迷うんです。自分がこうありたい正解を自分で選び取るしかない」

 『セクシー田中さん』(日本テレビ系)第2話において、田中さん(木南晴夏)がベリーダンスについて語った言葉である。まさに私たちの人生には正解がない。一人一人の生き方に対応した教科書なんてどこにも用意されていないから。だから私たちは迷う。人生のたくさんの選択肢と、たくさんの大切にしたいこと・人を前に。

 『セクシー田中さん』が12月24日に最終回を迎える。本作は、芦原妃名子による同名コミック(小学館『姉系プチコミック』連載中)を原作に、『ミステリと言う勿れ』(フジテレビ系)の相沢友子が脚本を手掛けた。本作は、「本音」のドラマだと思う。

 登場人物たちの一挙一動を笑いながら観ていたら、ふとした拍子に零れ出る彼ら彼女たちの切実な思いに、思わず真剣に聞き入っていたことはなかっただろうか。身に覚えがある台詞にドキリとしたことがあったのではないだろうか。あまりにもそれは、かつての、あるいは今の自分の言葉のようで。もしくは、未来の自分の言葉かもしれないと思って。そしてそれはきっと、朱里(生見愛瑠)世代にも、田中さん世代にも、笙野(毎熊克哉)や小西(前田公輝)、進吾(川村壱馬)たち男性陣、あるいは笙野の母・悦子(市毛良枝)世代にも言えることではなかったか。

 田中さんが、華やかでセクシーな衣装と舞台化粧の内側に、それまで人とちゃんと関わってこなかったことの後悔と、年齢を重ねることへの不安と、初めての出来事に心躍らせる少女のようなときめきと、三好(安田顕)への恋心を秘めていたように。

 本作の登場人物たちは、思わぬ意外性を見せる。田中さんに憧れる朱里は、若くてかわいくて皆に愛される「イマドキ女子」としてキラキラと発光しているかのようだが、心の中では、現状の不安や、「全ての男性から欲望の対象にされてしまう」からこその男性への不信感と、それでいて「でも好きになるのは異性」というジレンマを抱え、「小さなウソと小さな優しさ」を織り交ぜて笑っている。

 「女性に対する偏見まみれ」の笙野は、初回こそ「全女性の敵」のように描かれていたし、そもそも本質的には変われない部分もあることはしっかり描かれているので、現時点でも時折失礼なことを言い続けていたりもする。だが、その内側にある、そうならざるを得なかった家庭環境を知るとともに、田中さんに出会うことで劇的に変わっていく姿、本来持っていた心根の優しさ、素直さに触れることで、視聴者の多くが愛さずにはいられない存在になった。

 田中さんの存在が登場人物たちを変えたのだとしたら、それは彼女が外見や第一印象で人を判断するのではなく、その奥にあるその人自身を見つめ、対話することができる人だったからだろう。初対面の頃の朱里と小西が、互いの持っているステータスである「女の若さ・かわいさ」と「男の学歴・年収」でしか互いを見ることができず、打算的にしか向き合えなかったのに関わらず、今「自然体の2人」になれたのは、互いの心の内側に触れたからだ。

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