『らんまん』史実には存在しなかった「十徳長屋」が果たした役割 “屋台崩し”後の最終週へ

「ハチクは120年周期で開花する。その理由も仕組みもわかっちょらせん。けんど、その開花した後、山中の竹林が一斉に枯れ果て、そして新たに竹林が再生される」

 NHK連続テレビ小説『らんまん』第118話における、主人公・万太郎(神木隆之介)の言葉である。その言葉は、それに続く「人の世に異変が起こる時、竹の花が咲く」という伝承の呈示通り、その後の日露戦争、関東大震災という「人の世の異変」を予言するものであると同時に、本作の物語構造そのものの大きな転換点が近づいてきていることを示してもいた。それは、本作が「高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとした」作品であるのにかかわらず、史実と最も乖離した部分であり、本作の後半部分の主要舞台とも言える「十徳長屋」の終焉だった。

 長田育恵脚本及び優れた俳優たちが抜群の安定感で紡いできた物語も、いよいよ終わりの時が近づいている。思えば本作は、幕末から明治へという大きな時代の転換点から始まり、「ハチクの開花」のエピソードさながら、何度も死と再生を繰り返す物語だった。時代は変わり、世の中は変わる。早川逸馬(宮野真守)さえ「自分だけの道を見つけた」万太郎の「自由」な姿を羨むように、人もまた、変わらないでいることは難しい。でも、万太郎だけが変わらずにそこにいる。そして、万太郎だけは変わらないでいいように、守り続けた寿恵子(浜辺美波)がいる。

 『らんまん』は、初回冒頭の場面がもう一度繰り返される第65話終盤において、はっきりと前半パートと後半パートに分けることができる。酒蔵・峰屋を中心に「家」と「個人」の葛藤を描き、タキ(松坂慶子)の言葉をきっかけに「家」の解体が描かれた前半部分が終わり、新章の幕開けの回である第66話は、万太郎と寿恵子をはじめとする十徳長屋の人々がまるでミュージカルさながら、朝の支度を歌いながらこなす姿が描かれた。

 つまり「長屋」は、「家」の象徴だった峰屋とは対照的な、「個人」が集い、自由に行き交う場所の象徴でもあった。その後長屋に訪ねてきた綾(佐久間由衣)が言うところの「これが当たり前ながじゃねえ。皆が自由に、出てくことも流れてくることもできる。それでも繋がりが消えるわけじゃない」という台詞が象徴するように。

 「同じ春は2度とない」ように、長屋は、一つ所に留まりながら、様々な景色を見せてきた。万太郎の人生の変化に合わせて、時に壁を壊したり、部屋を増やして母屋と研究部屋ができたり、弟子である虎鉄(濱田龍臣)が住みはじめたり、綾と竹雄(志尊淳)が泊りにきたと思ったら、そのうち屋台を始めたり、時には庭が九兵衛(住田隆)の寄席の舞台になったり、変幻自在に姿かたちを変えた。家族同然生活を共にする仲間だった住民たちも、それぞれの生活の変化と共に、1人また1人と旅立っていった。

 最後に差配人だったりん(安藤玉恵)までもが去っていく。家賃が払えず「引っ越しを余儀なくされたことも屡々」という本来の牧野富太郎の史実に乗っ取れば存在し得なかった「長屋」という舞台装置の中で、年を重ねていった彼女の万感の表情に、この物語自体の軌跡を感じて、感慨深いものがあった。

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