三宅唱、濱口竜介らの“ホーム”だった伝説の映画館 オーディトリウム渋谷を千浦僚が回顧

 空族、三宅唱、濱口竜介……現在、第一線で活躍する映画作家たちの“最初”の映画館として彼らを支えた映画館が渋谷にあった。2011年〜2014年にかけて、渋谷区円山町のKINOHAUS(ユーロスペース、シネマヴェーラ渋谷があるビル)の2階にあったオーディトリウム渋谷だ。閉館からまもなく9年が経ついま、スタッフを務めていた千浦僚氏に、渋谷の映画館の思い出、オーディトリウム渋谷での時間を改めて振り返ってもらった。(編集部)

 私はまず幼少期から映画ファンであり、そのために10代でフィルムの映写を習い覚えてそれ以降流浪の映写技師となって現在に至る、という感じなのですが、年齢的には1993年に大学に入った世代、90年代が青春だった世代なので渋谷というのはミニシアター密集地区、映画文化のメッカだったようなイメージがあります。いや、当時住んでたのは大阪だったので遠目に見ていたんですが。

 全然ファッションに興味ない、日本の音楽も聴かない、横縞のシャツも着ないしベレー帽もかぶらないしジタンも吸わない関西人なんで、「渋谷系」と聞くだけで、なんじゃいワレこら! と凄みがちな者だったんですが、ユーロスペース、シネマライズ、シネセゾン渋谷、シードホール、シネ・アミューズ、Bunkamuraル・シネマ、シアター・イメージフォーラムがあるということでやはり、渋谷やばいな、と。東京以外の地方に住む猛禽的映画鑑賞者は映画を観ることが目的の東京旅行、東京滞在をして、その際には情報誌を検討して(ネット、スマホが存在してない時代の話です)、いかに自分好みの組み合わせで効率よく連続鑑賞するかという計画を立てて動きますが、岩波ホールにも俳優座シネマテンにもシネヴィヴァン六本木にもACTSEIGEIシアターにも行くんだけど、そこで先述のようなミニシアターが集中している渋谷って便利やなー、という感覚はありました。

 ただ自分には過度の東京崇拝も、その逆のコンプレックスもなかったつもりです。90年代の大阪にはユーロスペースの番組をほぼ全部上映する扇町ミュージアムスクエアという映画館がありましたし、その他の関西のミニシアター全般をチェックすれば多少公開時期の遅れや上映期間の短縮化はあっても、大阪(関西)に住んでいて観ることができない、やって来ない映画というものはほぼなかった。

 また、既に映画上映関連のインサイダーとしてシネ・ヌーヴォという映画館とプラネットStudyo+1という上映スペース(シネクラブ)のスタッフをしてましたから、やってる映画を追うことからさらにもっと踏み込んだ、番組を組んで観せることと、配給されて日本語字幕入りで公開されるもの以外の映画も観ること(法政大学シアターゼロやアテネ・フランセ文化センターや個人コレクター蔵の無字幕16mmフィルムの上映、輸入ビデオの鑑賞など。……ネット以前の時代です……)もしていた。あと20歳のときにヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュや梅本洋一氏が語るような、新旧取り混ぜたいろんな作品が観られる映画都市とはどういうものだろうと思ってパリへの映画鑑賞旅行をして、たった10日間ほどですがパリで、シネマテークフランセーズからサンドニのポルノ館まで、毎日3、4本の映画を観て、映画館の多さ、上映されている作品の幅広さをすごくいいなあと思った。そこをベストと思うから、東京スゲー、というだけではない、世界にはもっと豊かな映画鑑賞状況があるんだということはイメージしてました。

 2002年に上京して映画美学校という映画学校の映写設備の技師として働きました。当時映画美学校は京橋にありました。国立フィルムアーカイブ(当時の名称は「フィルムセンター」)の1ブロック隣。そこで映画宣伝会社用のプレス向け上映をやってました。それ以外に学校の授業関連(実習で製作したものなど)や参考上映、学生さんや講師の方が企画した上映会の手伝いなど。自主上映会は無給ですけど、結局そういう観る・観せるということがやりたいことだから、なんでも持ってきてください、なんでもやろうよ、と楽しんでやってました。

 2010年に映画美学校の校舎移転(渋谷に)や試写室業務の縮小があったのでその頃はアテネ・フランセ文化センターでバイトし、2011年3月から2014年10月まで、渋谷にできたオーディトリウム渋谷というミニシアターのスタッフになりました。

 オーディトリウム渋谷は円山町のユーロスペース、移転してきた映画美学校と同じビルに、2011年の3月12日にオープンしようとしていたのですが、3月11日の東日本大震災でオープンを1カ月遅らせました。機材が壊れたわけではなく、誰も映画を観にこない、余震や原発事故もあってそれどころではなかったためです。ただ、3月11日の夜は客席を開放して通りがかる帰宅困難者の居場所として使ってもらいました。翌朝以降、あの3月の渋谷には人もまばら、節電で街も暗く、なにもかも陰鬱でした。

 最初、映画館としての実績がないのと世間の人心に映画を観る余裕がないせいか、番組が組めずやる映画がない、やってもお客さんが少ない状態でしたが、震災と原発関連のドキュメンタリーに観客が来始めました。そこにはテレビではやらない情報と主題、スポンサードされてない記録と報道、反原発の思想があったためです。

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