『リトル・マーメイド』は最も意味のある実写化作品 “ディズニーらしいディズニー映画”に
一時期人気が低迷していたディズニーが、かつての勢いを取り戻すこととなった、「ディズニー第二黄金期」。その始まりとなったヒット作品が、劇場アニメーション『リトル・マーメイド』(1989年)だった。ディズニーの長編アニメの原点である『白雪姫』(1937年)制作時の精神に立ち戻り、プリンセスの物語を高いクオリティで描いた『リトル・マーメイド』は、まさに「ルネサンス」といえる復活劇をディズニーにもたらした。
そんな記念すべき一作もまた、ディズニーの過去の名作を実写映画化する企画の対象となった。そして企画の発表からじつに7年越しの時を経て公開された実写版『リトル・マーメイド』は、一連の実写化シリーズのなかでも、意義深い最高の出来となったといえる。それはなぜなのか。本作『リトル・マーメイド』の何が素晴らしかったのかを、ここで解説していきたい。
それを語るには、前提としてキャスティングについて述べる必要がある。オーディションで主人公の人魚アリエル役に選ばれたのは、シンガーのハリー・ベイリー。姉とともにクロイ&ハリー・ベイリーというデュオで活動するR&Bアーティストであり、姉妹で俳優としても活躍している。その実力は本物で、ロブ・マーシャル監督は、彼女がオーディションで歌った「パート・オブ・ユア・ワールド」に感動し、涙を流したほどだったという。本作の「パート・オブ・ユア・ワールド」の歌唱シーンを鑑賞すれば、それが真実だと分かるはずである。
また、彼女の父親がアフリカ系アメリカ人であり、アニメ版のアリエルとは異なる肌の色をしていることについて、監督は「最も相応しいキャストを選んだだけ」と、人種的な要素がキャスティングに影響していない旨を語っている。(※)
だが一部の人々がSNSなどでこの選択に異を唱え、「#NotMyAriel」(私のアリエルじゃない)というハッシュタグを作り非難するという事態が起きてしまう。そして一部のファン以外にも、保守主義者、人種差別主義者などを巻き込んだ騒動となり、多様性の尊重への反動(バックラッシュ)の餌食となっていったのは周知の通りだ。また、映画作品の評価サイトでも、不正な方法で低評価を増やす嫌がらせが起こり、一連の問題は公開後もまだ鎮火しているとはいえない。
もともと人魚という存在は伝説上のものなので、どの人種が演じようが問題なく、本作のなかでもカツオドリのスカットル(オークワフィナ)の性別が変更されたことがとくに問題になっていないように、キャラクターの見た目や設定が変わることは、それほどおかしいことではないはずだ。しかし批判者たちは、「アフリカ系の俳優を出したいのなら、新たなキャラクターを新たに作ればいい」と主張し、本来自由であるはずの選択に圧力をかけている状況が可視化されることになった。
その心理の背景には、アフリカ系俳優に対する意図的な、もしくは意図せざる偏見が存在しているものと思われる。そもそも差別のはじまりとは自分でも気が付かない偏見から引き起こされるものだ。一方で、プリンセスや人魚、そして『リトル・マーメイド』の物語に憧れを抱くアフリカ系の子どもたちの間では、喜びの声が広がっている。
アニメ『リトル・マーメイド』は、主人公の髪の毛の色を鮮やかな赤毛にしたことが特徴的だった。当時、赤毛をコンプレックスに思っていた子どもたちの観客は、憧れのキャラクターが赤毛だということに勇気づけられ、自分に自信を持つことができたのだという。そうやって大人になった観客のなかには、そのバトンを次の世代に渡したいと語る者もいる。
毛の色も肌の色の変更も、本来はとくに何のことはない事柄である。だが、そんな何でもないことが、社会に存在していた偏見や差別、そして圧力をあぶり出すことになったのだ。そうなってくると、この作品そのものに、どうしても政治性や社会性といった要素が付与されていくことになる。本作が素晴らしいのは、そんな状況をも想定し、『リトル・マーメイド』の基本的な物語をたどりつつも、絶妙なバランスでこの問題への答えとなるテーマをも提示している点である。
もともとアニメ『リトル・マーメイド』は、舞台を特定の場所に重ね合わせたものではなく、海の中の世界は、海の中の王国アトランティカ、陸地は海辺の王国という、ディズニーらしいアバウトかつファンタジックなものであった。そこに民族的な要素を与えたのが、カリブ海で生まれた音楽、カリプソを愛するカニのセバスチャンが歌う「アンダー・ザ・シー」だった。本作では、そんなカリブ海の要素を広げて、浜辺の王国はカリブ諸国を想起させるものとなり、バンドによる「キス・ザ・ガール」のアレンジ版も披露される。
そんな王国は、肌の色が異なる人々が平等に暮らしているという特徴を持っている。しかし、もともとカリブ諸島は、スペイン人などヨーロッパからの入植者が土地を奪い、アフリカ系の奴隷を住まわせて搾取していたという歴史を持っている。このことから、本作では負の歴史を理想化して描いてしまっているという指摘もある。とはいえディズニーは、これまでファンタジックな“幸せな王国”を表現してきたのも事実だ。ディズニープリンセスの王国というのは、中世の血塗られた暴政などの歴史の暗部には触れずに、人々が楽しく暮らせる場所として成立してきている。
そもそもディズニープリンセスの物語の世界観というのは、君主制を正当化する保守的な価値観から生まれているのであって、『アナと雪の女王』シリーズに代表されるように、この保守的な枠組みに、多様性を尊重する価値観が加わって、互いに共存しているというのが、近年のディズニーの状態といえるのだ。その意味において本作は、“ディズニーらしいディズニー映画”だといえよう。