目黒蓮×今田美桜『わたしの幸せな結婚』が放つ異色な魅力 観客を信頼する圧倒的な力技

『わたしの幸せな結婚』が放つ異色な魅力

 継母と異母妹から虐げられてきたヒロインが運命の相手と出会う。ベースにある筋書きは極めて古典的なシンデレラストーリーでありながら、公開されてから聞いていたのは『はいからさんが通る』と『帝都物語』が融合したような作品という評判。それだけで『わたしの幸せな結婚』という作品が(原作を知らずに観に行くと)、一筋縄ではいかない作品であることがよくわかる。

 案の定、いざ映画が始まれば冒頭シーンの不穏さにただただ面食らう。ラブストーリーとアクションとファンタジー。そうした複数のジャンルのどれにも染まらない作品でありつつも、そのいずれかひとつで括ることもあながち不可能ではない。少なくとも、ここ数年の日本映画としては珍しいほどに強固な“設定”を持ちながらそれに依存しない、実に真摯に作り込まれた映画であったことは間違いないだろう。

 舞台設定は大正か明治か、そのぐらいを想起させる近代であり、“異能”と呼ばれる特殊能力を持つ家系が有力とされている時代である。今田美桜演じるヒロインの斎森美世も“異能家系”の出であるが、彼女自身は能力を備えていない。そんな彼女が家同士の政略結婚として、目黒蓮演じる軍人の久堂清霞のもとに嫁ぐところから物語が始まる。冷酷無慈悲で、これまでの婚約者候補はみな逃げ出したという悪評がある清霞の、噂とは異なる一面を垣間見て心を通わせていく美世。こうした一連は、“異能”というフックのあるなしにかかわらず王道のシンデレラストーリーの様相だ。

 とりわけ昨今の日本映画の特色として、良くも悪くも(ほとんどの場合、悪くもだが)物事の状況や登場人物の心情を口に出して説明する、いわゆる説明台詞の多さが目に付くことが極めて多い。その是非はいったん置いておくとしても、本作のような複雑怪奇な前提を持つ作品となれば、その世界観を観客に理解させるためにそうした手法を用いることは避けがたいことである。ところが本作の場合、冒頭に世界観を説明した後、劇中でモノローグを含めて聴覚から与えられる情報の多くが担うのは、ひたすら主人公2人の心情ばかりである。

 もちろん清霞という人物が冷酷な外面にこっそり隠した優しさや孤独、そうした人間性を見つけ出して自身の境遇と重ね合わせていく美世の心の動きであったり、同様に美世の健気さに柔和していく清霞であったりと、両者の心情の動きは、今田と目黒の表情ひとつで充分すぎるぐらいに描写されている。また、序盤で美世が清霞に挨拶をするシーンを窓外からとらえたショットを、同じ構図を以って反復する中盤。清霞の動作の違いによって2人の関係の変化が物語られ、これだけで2人のラブストーリーが完成しているといっても過言ではない。それゆえ、時折モノローグさえも煩わしく思えてしまう点は否めない。

 すなわちラブストーリーとしての表現に重きが置かれ続けたことが、この作品を異色たらしめたのであろう。結局“異能”とはなんぞやや、帝都に襲いかかる“災い”が少々釈然としないまま、クライマックスのダイナミズムへと突っ走る。ところがそうした情報の意図的な欠落こそが、中盤で清霞が斎森邸を焼き落とすシーンをエキサイティングなものに見せ、陸軍省で繰り広げられる異能部隊たちのドラマを駆り立てる。そしてまた、“災い”がどこか現実世界のパンデミックともシンクロし、何が起きてその後どうなるのかわからない怖さをも作り出していく。

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