『ザ・ホエール』と『白鯨』の相似点を読む 人生に価値を与えるための打倒すべき“使命”
『レスラー』(2008年)、『ブラック・スワン』(2010年)などの人気作品で知られる、ダーレン・アロノフスキー監督の新作映画『ザ・ホエール』が公開となった。この物語は、2012年に初上演されたサミュエル・D・ハンターの戯曲が元になっている。映画を観れば、これがとても演劇的な舞台設定で撮られた作品であることは一目瞭然だ。本作はまず何といっても、ほとんどすべての物語が、主人公チャーリー(ブレンダン・フレイザー)の住む日当たりの悪いアパートと、玄関のドアを開けた先にある狭いベランダでのみ展開される点が特徴的である。これならば、どんな小さな劇場でも上演可能な設定だと感じた。当初は、アパートの室内しか出てこない映画という点で「退屈してしまったらどうしよう」と心配もしたが、気がつけば、彼の部屋を訪ねてくる4人の登場人物とのやり取りに、すっかり観入ってしまった。アパートの外は雨の日や曇りが多く、部屋は暗いままである。アパートは清潔とはとても言いがたく、どこか陰鬱なのだが、そのような場所で交わされる言葉だからこそ、胸に響くものがある。
アメリカ人の感覚からすれば、主人公の住むアパートは狭くて質素な場所だ。とても理想的な家とは呼べない。そんな住まいでひとり暮らしをしているチャーリーは、体重272kgの男である。どうやら、精神的な苦悩から過食に走ってしまったことが連想される。彼はもはやみずからの足で歩くことができず、歩行器を使ってどうにか移動している状態だ。普段はオンラインで大学講師の仕事をしながら、必要なものを宅配で届けてもらっているため、外出することはない。親友の看護師リズ(ホン・チャウ)が定期的に彼の元を訪れて健康状態をチェックしているが、身体のコンディションは最悪。血圧は上が238、下が134という常軌を逸した数字であり、リズはあと数日のうちに彼は死んでしまうと確信する。「病院へ行ってほしい」と説得を試みるリズだが、なぜかチャーリーは頑なに診察を拒み、このままアパートで死を迎える覚悟ができているようだ。なぜ彼は病院へ行くことを拒むのか。チャーリーにはどのような過去があったのか。こうした疑問が少しずつ提示されていく後半から、観客はその展開に目が離せなくなっていく。
本作のタイトル『ザ・ホエール』(鯨)は、劇中で言及される、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』(1851年)にちなんでいる。チャーリーとその娘エリー(セイディー・シンク)をつなぐきっかけが、メルヴィルの『白鯨』なのだ。エリーがかつて書いた『白鯨』の書評を、チャーリーはとても気に入っていたのである。しかしなぜ『白鯨』なのだろうか。この部分を深読みしてみれば、チャーリーとエリーの関係性もまた、『白鯨』に出てくる巨大な鯨と、異様な気迫で鯨を追いつづけるエイハブ船長との関係に置き換えることができるかもしれない。
『白鯨』に登場するエイハブ船長は、かつて自分の片足を奪い取った鯨をどこまでも追い求める執念の男であった。「あの白い悪魔を追え!」と叫ぶエイハブ船長は、鯨に激しい怒りを燃やし、損得勘定をかなぐり捨ててひたすらに追跡する。まるで、白鯨さえつかまえられれば彼の人生は完結するといわんばかりだ。白鯨を憎み、追うことが、エイハブ船長にとってもっとも重要な使命になっている。