『すずめの戸締まり』に詰まったロードムービーの醍醐味 旅の中で経験する“擬死再生”

 新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』が公開中だ。今作は、これまでの作品とは打って変わってロードムービー色が強い作品となっている。愛媛、兵庫、東京、そして宮城と、過去の大きな地震に関連のある土地を巡っていき、その先々での新しい出会いとドラマにスポットを当てていく。

 本稿では、ロードムービーという視点から『すずめの戸締まり』の面白さを紐解いていきたい。

ロードムービーが内包する「家」「ロード」「死」

 主人公の鈴芽は、椅子の姿に変えられた草太と共に、猫の姿をした要石のダイジンを追いかけて、故郷の宮崎県を飛び出すこととなる。半ば“家出”だ。この家出というカタチでの、旅の始まり、あるいは旅の在り方は実にロードムービー的であると言える。

 映画評論家の轟夕起夫氏は、ロードムービーにおける「ロード」と「家」の関係について次のように述べている。

ロード・ムーヴィーは本質的に、“反=ホームドラマ”という方向性を内包しているからだ。「家」ではなく「路上」でのドラマを捉えるためにカメラが外へと飛び出した。むしろ「家」に安住せず、そこから遠ざかっていく所作こそがドラマを生成していくのである。(※1)

 この関係が端的に伺えるのは、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』だろう。

 妻子を捨てて失踪した主人公の男性は、荒野を放浪しながら生活をしている。そんな中で、彼の息子を養育している弟に連れ戻され、さらには妻との再会を目指すなどし「ロード」から「家」への回帰へと近づいていく。しかし、主人公は結局、家族のところに戻らず、息子を妻に託して、また旅に出てしまう。

 この「ロード」と「家」を行き来するように物語が展開されていくのが、ロードムービーの旗手とも言えるヴェンダース監督の代表作の特徴だ。

 では、「家」から飛び出した先にあるのが「ロード」なのだとすると、「ロード」の先にあるものは何なのだろうか。

 塚田幸光氏は、自身の著書『シネマとジェンダー アメリカ映画の性と戦争』(臨川書店)の中で、「アメリカ映画が描くロードは死の匂いに満ちており、ロードが導くのは死」であると言及している。

 『イージー・ライダー』や『テルマ&ルイーズ』といった作品がこれに当てはまる。主人公たちは車あるいはバイクに乗って、家を飛び出し、ロードへと繰り出していくが、その先で彼らを待つのは「死」だ。

 『すずめの戸締まり』においても、鈴芽の進む「ロード」の先にあるのは、地震という多くの人を死に至らしめるモチーフ、あるいは常世という死後の世界である。

 このように、本作は「家」を起点として、そこから飛び出したところにある「ロード」、さらにはその先にある「死」によって物語世界を構築しており、その点で実に典型的なロードムービーの構造を成しているのだ。

自己探求と擬死再生

 ロードムービーにおける旅には、作品によってさまざまな目的や意味が課されているが、やはり多いのは「自己探求」ではないだろうか。名作『イージーライダー』の公開当時のポスターにも、「アメリカの心と、人間の自由を旅に求めた男たち!」とのキャッチコピーが書かれていた。

 先ほど挙げた『パリ、テキサス』の主人公も両親が愛を確かめ合い、自分が生まれた場所であるパリを探している。このようにロードムービーの主人公たちは、何かを、とりわけ自己を探して旅に身を置いていることが多いわけだ。

 一方で、『すずめの戸締まり』における主人公の鈴芽の旅は、自分本位のものではなく、他者の影響で突然始まる。椅子の姿に変えられてしまった草太と共に要石のダイジンを追いかけてフェリーに飛び乗るのである。

 そして、旅が始まってからも彼女はあくまでも、草太の旅の付き添い人という立ち位置を出ることはなく、彼の目的に寄り添って旅を続けていく。

 しかし、物語の中盤、ある出来事を転機として、鈴芽は選択を課されることとなる。草太の父親のいる病室を訪れた彼女は、旅をやめ、草太のことも忘れて、今までの日常生活に戻るのが賢明であると告げられる。

 これは「家」か「死」かというロードムービーの構造になぞらえた二択である。それに対して、彼女は迷わず「(死ぬことは)怖くなんてない」と言って見せた。ここから、彼女の本当の旅が始まる。彼女は草太という大切な存在を取り戻すという明確な目的意識をもって旅を始めるのである。

 その旅の先に待つのは、言うまでもなく「死=常世」である。

 ロードムービーにおける「ロード」の先にあるものとして、「死」が位置づけられることが多いのはなぜなのだろうか。イニシエーション(通過儀礼)において、擬死再生というプロセスがある。映画『ブラックパンサー』におけるハーブの儀式はその典型的な例だろう。

 つまり、自己を見つけるために、「死」あるいはそれに類する疑似的な何かが必要なプロセスなのである。しかし、本当に死んでしまったのでは、自己探求に失敗したと言わざるを得ないと思われるかもしれない。

 秋田大学教育文化学部准教授の中尾信一氏が『秋田魁新報』に寄稿した記事の中で『テルマ&ルイーズ』のラストについて「後に続く女性たちのために誰も走ったことのない道を作るということの暗示」との解釈を述べていた。

 この解釈に基づいて考えると、ロードムービーの主人公は「観客たちの自己投影を背負って疑似的に死んでいく」役割だったのではないかとも思える。映画の主人公たちの旅と「死」を介して、観客自身が新しい自分を見つけ、スクリーンの外の世界へと戻っていくというのが、ロードムービーの役割のひとつだったと言えるのかもしれない。

 少し話が逸れてしまったが、重要なのは、ロードムービーにおける「死」あるいはそれに類する何かには、自己探求の達成に必要な擬死再生をもたらすための「死」という側面があったのではないかということだ。

 『すずめの戸締まり』の鈴芽も、扉を開け、常世(死後の世界)に飛び込むという形で、一度疑似的に「死」を経験することとなる。そして「死」の先に彼女は「自分」を見つけるわけだが、今作においてはこの擬死再生が実にユニークな演出で描かれていた。

 その描かれ方については、ぜひともみなさん自身の目で確かめていただきたい。

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