『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が戸惑うような展開になった理由

 これを踏まえると、前作で世界に貢献しようとする姿勢を見せたワカンダが、その公共心のために国内の稀少な資源「ヴィブラニウム」を複数の国家に狙われるという裏切りに遭うという、苦難の展開にも納得できるところがある。虐殺や奴隷貿易、植民地化による資源の強奪という、人類史上に刻まれる歴史的犯罪によって、アフリカ諸国の人々は想像を絶する被害をこうむったが、そのようにアフリカの天然資源、人的な資源が搾取される構図は、かたちを変えて継続されている部分があるのだ。

 そんな、かつて虐殺や奴隷貿易をおこない、現在も差別問題を抱える国々が、稀少鉱物ヴィブラニウムを独占するワカンダに対して、図々しくも兵器転用についての危険性を指摘し、その分配を提案しようとすると、ティ・チャラの後を継いだ、彼の母でもあるラモンダ女王が、すかさず「ヴィブラニウムが危険なのではなく、あなたたちが危険なのだ」と切り返す場面が痛快だ。

 そこから作品のテーマは、ワカンダと相似形といえる、新たに姿を現した海中の王国タロカンとの確執へと移行する。スーパーパワーを持つ王ネイモア(テノッチ・ウエルタ・メヒア)が統治するタロカンは、メキシコのマヤ文明やアステカ文明など、かつてスペインに侵略された王朝がモデルになっていると考えられる。白人の征服者たちから身を隠し、同様にヴィブラニウムの力を利用して独自の進化を遂げたというファンタジックな設定を持つという点では、ワカンダとタロカンは同じ運命を辿ってきたのだ。

 ヴィブラニウムと人々の暮らしを守るため、ワカンダとタロカンは、ヴィブラニウムの探索装置を開発した、アメリカ人の天才的な技術者の少女リリ・ウィリアムズ(ドミニク・ソーン)をめぐって、一触即発の状況に陥る。ここで始まってしまう戦争は、私欲が原動力になっているわけではないだけに、絶対的な悪が存在しない悲痛な戦いとして描かれる。

 その戦争の中で、ブラックパンサーの力を受け継ぐことになる人物は、やはり、一度は克服したはずの暴力の問題の葛藤にさいなまれることになる。この葛藤を生んだ、人の死による喪失を最終的に救うことになるのは、奇しくもワカンダの伝統の儀式の思想にあったことは興味深い点だ。

 前作『ブラックパンサー』で、キルモンガーことエリックが主張していたのは、“白人のやり方で白人に思い知らせる”という、復讐の論理であった。しかしそのやり方では、無限に憎しみが連鎖し、報復が繰り返されることになってしまう。対して、ワカンダ王国がこれまでうまく外界から隠れ、戦争の危機を逃れてきたのは、おそらく他の国が陥ってきたような、戦争を生む憎しみから自らを解放する思想を作り上げ、伝承してきたからなのだと考えられる。ワカンダは白人国家のテクノロジーの上をいくだけでなく、論理や哲学の面でも、より優れた国家であったことが明らかになるのである。

 現実のアフリカ系の人々は、歴史のなかで筆舌に尽くし難い暴力の被害を受けてきた。そして、かたちを変えて被害はまだ継続されている。その事実に直面したとき、当事者でない者はもちろん、当事者であったとしても、「報復はいけない、暴力はいけない」などと言いきることは難しい。そんな葛藤のループに対して本作は、“我々は差別者や、これまでの白人の支配者よりもっと高いレベルでものごとを思慮できるはずだ”と、提案しているのではないか。

 スパイク・リー監督の名作『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)は、ニューヨークのブルックリンを舞台に、まさにこの抵抗と暴力の間にある葛藤を、若々しい感性ながら思慮深い論理性で描いた映画だった。そこでは、白人による黒人への暴力や差別が常態化している描写がある一方で、黒人がアジア系の住民に差別的な態度をとる場面も映し出される。

 リー監督が、あえてこのような描写をしたのは、同じ有色人種としてアメリカの白人から差別されているにもかかわらず、アフリカ系がアジア系の人々を差別してしまえば、“白人と同じやり方”を踏襲することになるということを表現したかったのではないか。その思考に乗っかってしまった時点で、人種問題の歴史は“正しさ”を考えるものでなく、ただの弱肉強食の結果だと矮小化されてしまうことにならないか。

 本作の脚本も書いたライアン・クーグラー監督が、同じような立場の民族間における、正義のない陰鬱な戦争を大スケールで描き、それを乗り越える精神性を重要なものとして表現したのは、前作のアフリカ系としての“肯定”の先にある、“内省”を描くことで、思想的に次のステップに進みたかったのだと考えられる。

 本作の戦いは、前作ほど耳障りの良い内容ではなく、カタルシスも得にくいことはたしかだ。しかし、憎しみを乗り越えて二つの国家、民族が停戦のために手を結ぶという、友愛を示した結末は、それだけに意義深く感じられる。これはまた、娯楽映画の枠を飛び出して現実の葛藤を描いた『ブラックパンサー』の続編が、より混迷した世界のなかで到達しなければならなかった、“非白人”としての精神性であり哲学的境地だったのではないか。

 その意味において本作が、一見してファンが戸惑うような部分のある内容になったというのは、むしろクーグラー監督が誠実な作品づくりで挑戦をした結果だと考えられる。やはり『ブラックパンサー』シリーズは、ヒーロー映画のなかでも一線を画す作品だ。

■公開情報
『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』
全国公開中
監督:ライアン・クーグラー
製作:ケヴィン・ファイギ
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
©︎Marvel Studios 2022

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