『線は、僕を描く』“沈黙”を操る小泉徳宏監督の手腕 無限の可能性を持つすべての人へ

 『ちはやふる』(とりわけ『上の句』)では主人公がカルタを取るという所作によってスクリーンとこちらとの間に立つ空気が斬られるのを感じたが、『線は、僕を描く』では映画的な躍動が抑制されたなかで、確かに墨の匂いを感じることができる。最大瞬間風速は明らかに前者の方が強いのだが、映画から解き放たれた後も墨の残り香によってゆっくりと咀嚼していきたい気分にさせられるのは後者の方だ。ものすごく雑な言い方をしてしまえば、日本映画はこのぐらい地味なほうが、趣がある。

 とある出来事によって家族を失った主人公の大学生の青山霜介(横浜流星)が、ひょんなことから水墨画と出会い、さらにひょんなことからその界隈で名の通った名士に弟子にならないかと誘われる。まったくの初心者として水墨の世界へと踏みだし、没頭し、やがてその世界の一員となっていく。自身を縛り付けていた過去と向き合い清算するように、心に描かれた思い出の花を紙の上にあらわしていく。“水墨画”という題材それ自体は、映画としては極めて珍しいものであるが(イム・グォンテクの『酔画仙』が思い浮かんだが、あれはあくまでも実在の画家にフォーカスした伝記映画であった)、そのストーリーラインは極めてシンプルな青春譚としての軌道を安定感たっぷりに走り抜けるのだ。

 もはや小泉徳宏映画の基本的なスタイルと呼ぶべきか、『ちはやふる』3部作によって確立されたシネマスコープ画面の中で象徴的に演者をとらえる構図や音楽の使い方は、当然のように今作でも極めて堂々と流用されていく。そのスタイルを司るアクセントのひとつが“沈黙”である。『ちはやふる』の場合は競技カルタに没頭する高校生たちの青春群像性に焦点が置かれながら、いざ対局となれば瞬時に己と向き合い、また相手と向き合い、カルタと向き合う。そして札が読まれる直前の一瞬の沈黙に髪を耳へかけて感性を研ぎ澄ます主人公の刹那が丁寧に汲み取られ、飛ばした札を取りに行くときにはたと気が付いたように群像性へと回帰することが繰り返されていった。

 しかし今作の主人公である霜介は、友人が近くにいようとも常に孤独な存在として描写され続ける。孤独に沈黙は否が応でも付きまとうものだ。序盤では、師匠の篠田湖山(三浦友和)に何か習ったかと思えば、それをすぐに自身のなかで紙上へ還元していく術を要求される。黙々と墨と紙に向かい、彼が練習に練習を重ねる光景はごく最小限にまとめられ、酔い潰れた彼の部屋に入るシーンで初めて彼が殺風景な部屋の中で孤独を昇華させながら画に向き合っていたことが示される。ところが彼は目覚めると、すぐにその成果物を破棄し、次へ向けて動き出す。沈黙という不作為的な作為を、映画的な省略という作為的な不作為に委ね、生まれた不完全なものが何度もリセットされていく。それはある種、孤独への抵抗であり、同時に芸術に没頭することの狂気すら感じさせるものだ。

 はたまた湖山や兄弟子の湖峰(江口洋介)、そして湖山の孫娘である千瑛(清原果耶)も同様で、彼らの頭のなかで思い浮かべられている完成形を、観客はその画が仕上がるまで見ることはできない。彼らが紙に向かうと決まってそこに一瞬の沈黙が訪れる。それはまさしく、どう描くかを思い描く所作であり、紙との対話である。沈黙を“不作為的な作為”と先述したが、何も聞こえない観客にとってそれは不作為でしかなく、彼らの所作の行き着くところをただ見守ることしかできない。それは序盤の霜介にとっても同様である。しかし彼自身が紙と、墨と向き合う術を見出した後は、ただ黙っているだけではない新たな沈黙を手にする。沈黙にはいくつものグラデーションがあり、それは水墨画で用いられる墨の濃淡によく似ているのかもしれない。

関連記事