『夏へのトンネル、さよならの出口』はなぜ3度も“トレイン・ミーツ・ディア”を描いたのか?

「えー、ただいま、前の電車が鹿と接触したため大幅な遅延が発生しております。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちください」

 『夏へのトンネル、さよならの出口』の物語はそんな「よくあるアナウンス」から始まる。

 青春映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」で始まるとよく言うが、本作の場合は「トレイン・ミーツ・ディア」というわけだ。

 映画『夏へのトンネル、さよならの出口』は、2019年にガガガ文庫から発売された八目迷著の同名の小説を映画化した作品である。

 監督・脚本を担当したのは、2022年秋より放送がスタートする『BLEACH 千年血戦篇』でも監督を務めることで知られる田口智久監督だ。また、アニメーション制作を『映画大好きポンポさん』で注目を集めたCLAPが担当しており、美麗な背景描写やCG処理へのこだわりは本作でも健在であった。

 では、作品の内容の方に話題を移していこう。

 小説原作の作品を映像化する際に、その物語の一部あるいは大半を改変するのは珍しいことではない。『夏へのトンネル、さよならの出口』についても映画版と原作小説を比べてみると、かなりの差異がある。

 一つずつ取り上げて解説するとキリがないが、その中でも個人的に印象に残ったのが、記事の冒頭で挙げた電車と鹿が接触したという駅のアナウンスである。

 というのも、原作の中でこのアナウンスが流れる描写は冒頭の1度きりであるのに対して、映画版ではなんと3度も繰り返されているのだ。

 些細な描写ではあるが、何の意味もなく改変したとは考えづらい。

 そこで、今回のコラムでは、映画版の『夏へのトンネル、さよならの出口』において、なぜ3度もの「トレイン・ミーツ・ディア」が描かれたのかを考えてみたい。

電車というモチーフが意味するもの

 まずは、電車というモチーフが何を表しているのかを先に考えてみよう。

 電車、列車、あるいは鉄道は文学や映画における普遍的なモチーフであり、さまざまな批評が為されてきた。

 その中でもしばしば指摘されるのは、電車が持つ次の特性ではないだろうか。

 電車はあらかじめ決められたレールの上を、決められたダイヤに則って走る交通機関であり、基本的にそこから外れることはない。そのため、電車を利用する乗客は、主体的に行き先や到着時間を自由に決めることはできないのだ。

 こうした特性を持つ交通機関であるが故に電車(列車あるいは鉄道)は「運命」のメタファーであると解釈されることが多い。

 幾原邦彦監督の手掛けたオリジナルアニメ『輪るピングドラム』は、運命をテーマにした作品であるが、劇中に「運命の列車」というド直球なモチーフが登場する。

 運命とは別の例として、スティーヴン・カーンの著書『空間の文化史』において、「隠喩」について説明の中で電車を引き合いに出した一節がある。

列車は駅から駅へと飛躍し、出発と到着の違いを実に色濃く際だてる。(中略)鉄道は「遠い二つの土地の個性を結びつけ、いわば私たちをひとつの名前から別の名前へと連れていってくれた」。列車旅行は失われた時を取り戻すためのひとつの手がかりであった。

(スティーヴン・カーン『空間の文化史』128ページ)

 この一節では、二つの離れた目的地同士を半ば強引に結びつける鉄道が、過程を無視して、乗客を目的地へと飛躍させる特性を持っていることが指摘されている。

 ここまでの内容を踏まえて、電車というモチーフが持つ特性を次の2つと仮定する。

①目的地や到着時間を決める主体性を乗客は持ち得ない。
②出発地と目的地を強引に結びつけ、その過程を無視して、乗客を目的地へと飛躍させる。

 その上で『夏へのトンネル、さよならの出口』について考えてみよう。

 塔野カオル(以下、カオル)は幼少期に妹のカレンを亡くしており、それがきっかけで家族が崩壊し、葛藤を抱えながら生きている。

 彼はかつての幸せな家族の肖像を取り戻すことを望んでいる。しかし、そのために積極的に現状を変えようとは試みていない。諦念とともに現状を受け入れているのだ。

 一方の花城あんず(以下、あんず)は、祖父に強い憧れを抱いており、自分もマンガ家になりたいと考えている。

 しかし、祖父と同じように、自分も大成しないまま終わってしまうのだろうと、諦めを抱えており、一歩が踏み出せずにいた。

 彼らは憂鬱な現状に身を委ねており、抵抗を試みようとはしない。あんずは原稿の持ち込みを画策してはいたが、物語の冒頭時点ではそれも未遂に終わっている。

 そんな2人が待つ駅のホームには電車がやって来ない。正確に言えば「30分」遅延している。

 先ほど仮定した2つの特性を踏まえて考えると、本作における電車は、「主体的に何かを選択せずとも、身を委ねるだけで、自分の望む目的地へと半ば強引に連れて行ってくれるもの」として描かれているように思える。また、過程を無視するという特性は、目的地にたどり着くための努力を求めないこととイコールである。

 だからこそ、カオルとあんずは駅のホームでただ「電車」が到着するのを待ち続ける。「電車」とは彼らの憂鬱な現状を変えてくれる何かであり、それはカオルにとってのカレンであり、あんずにとっての特別な才能だ。

 「電車」を待つという行為は、主体的に行動を起こさずとも、いつか自分の願いが叶えられるだろうと楽観視する、消極的な祈りにも似ている。

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