『鎌倉殿の13人』が突きつける“何を信じるか” 愛すべき弱さを持った源頼家に寄せて

 第26回で頼朝(大泉洋)が亡くなり、頼家(金子大地)が新しい鎌倉殿となり、物語が遂にタイトルに追いついた、第2章幕開けのNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。家同士の争いはますます激化し、いたるところに陰謀が渦巻く。登場人物それぞれの心の弱さや強さが浮き彫りになり、それゆえに彼らが行き着くだろう先を、我々はなんとなく知りながら、この物語を観ている。史実上明らかな複数の悲劇に辿りつくまでに、どんな過程を辿ったのか、ああ、そこに彼が、彼女が、こう思ったことが、こう関わってくるのか。そんな驚きとともに。

 ここにきて大きな変化と言えるのが、女性たちの動きである。平家と争っている時期が長かった頼朝時代、いわば「外で戦う」第1章は、女性たちはただ案じることしかできないことが多かった。だが、舞台が鎌倉中心になった、つまり「家」の物語となった第2章は、時政(坂東彌十郎)を操る妻・りく(宮沢りえ)、義時(小栗旬)に「鎌倉の中心」とされた政子(小池栄子)、「家同士の諍いとは関係なく、ただあなたの傍にいたいだけ」という真っ直ぐな思いで頼家の心を動かしたせつ(山谷花純)らの行動が、意図があるなしにかかわらず、物語全体を大きく動かし、鎌倉そのものを動かしている。

 嵐の前の静けさではあるが、比較的穏やかな回だった先週放送回の第29回は、新しいリーダーとして奮闘する頼家の「2つの顔」を観た回だった。金子大地が、泰時(坂口健太郎)への嫉妬心を募らせた、卑屈に歪んだ表情と、義時と叔父・全成(新納慎也)に心を開いた時の、まだ子供らしさの残る邪気のない表情の両方を見せ、「未熟で危うい鎌倉殿」を好演している。理想は高いけれど経験が伴わず、父の模倣をするけれど、そうなるに至った歴史を知らないから、いつも少し間違える。宿老13人による取り次ぎが気に入らないのは、全てお膳立てされた上の状況が、かつての巻き狩りの剥製の鹿を射る流れと重なってくるからだろう。ともすればイエスマンばかり重宝してしまう。「気持ちはわかるよ」と言いたくなる愛すべき「弱さ」を持った人物として描かれている。

 本作の全篇を通しての重要なキーワードは、「信じるか信じないかの相克」であると思う。人の生死が関わるエピソードにおいて、「信じる」という言葉が幾度も登場する。例えば、義高(市川染五郎)は、義時を信じ切れなかったから匿われていた場所を自ら離れて殺される。第28回における梶原景時(中村獅童)も、「京に無事に辿りつけるよう私が手配致しましょう」という義時に対し、「そなたを信じるわけにはいかぬ」と返す。実際これらの事象は、一見「いい人」である一方で、鎌倉と北条のためという「役目」のためにはどこまでも非情になれる、決して油断のならない義時の性質を示してもいる。また、頼朝が「人を決して信じることのない人物」として描かれる一方、義経(菅田将暉)は「人を信じすぎた人物」として描かれ、その死も、何を信じ、何を信じきれなかったか、その選択ミスの積み重なりとして描かれていた。

 では、頼家はどうなのだというのが第29回である。彼の場合、父親・頼朝の模倣、景時からのアドバイスを受けて「人を信じない」とひとまず宣言するのであるが、そこに至るまでのバックグラウンドがまだ特にない。そのためこれからいかようにも変われるというところで、政子の「誰も信じていないけれど心の底では信じたい人物」評が効いてくる。そしてせつの真っ直ぐな思いの吐露と、義時の優しい助言に心を溶かされ、「わしは弱い。信じてくれるものを頼りたい」という、素直な本音を吐露したのだった。

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