『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3週連続放送を楽しもう! 秀逸な小ネタの数々を紹介

 映画監督のスティーヴン・スピルバーグは映画製作者としても有能で、彼が自ら設立した映画会社アンブリン・エンターテインメントは、1984年から1986年にかけて凄まじい勢いで新作映画の製作に当たった。

 スピルバーグ製作総指揮の作品で、この時期に公開された『グレムリン』(1984年)と『グーニーズ』(1985年)は、いずれも映画ファンにとって忘れがたい名作である。しかし同期間のスピルバーグ製作の映画群でもっとも映像ソフト化の機会に恵まれ、何度も日本のテレビで繰り返し放送されたメジャータイトルといったら、ぶっちぎりで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)だろう。

 アンブリン製作の作品は興行上の理由からか、日本では監督よりも製作総指揮のスピルバーグの名前を大きく扱った宣伝が取られ、例えばポスター用のコピーにしても「スピルバーグからの贈り物」(『グレムリン』)、「スピルバーグのミステリー・アドベンチャー初登場!」(1985年公開の『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』)、「スピルバーグが贈るニューコメディ!」(1986年公開の『マネー・ピット』)といった具合で、初めて目にする人に、あたかもスピルバーグの監督作かと錯覚させるような客寄せ宣伝ばかりだ。

 御多分に漏れず『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、日本公開時のポスターには大きく「スピルバーグがまたやった!」という煽り文句が書かれていた。監督のロバート・ゼメキスは、スピルバーグよりも小さい出演者の名前、それよりも更に小さなフォントで目立たない不遇な扱いで書かれており、いかに『E.T.』(1982年)の記録的大ヒットに乗った80年代の興行界がスピルバーグの名を使って映画館に客を呼ぼうとしていたかが伺える。

 このように日本上陸時にはスピルバーグの名前で大々的に売られた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だが、タイムトラベルものの映画という構想自体はゼメキスと共同脚本のボブ・ゲイルによって数年前から温められていた企画であり、完成作もゼメキスとゲイルのアイデアが色濃く反映されている。もともとはゲイルが父親の学生時代のアルバムを見て、“もし自分が若い頃の親と同級生だったら? 若い時の父と仲良くやれただろうか”という着想がきっかけで生まれた話だという。1980年にゲイルとゼメキスが書いたプロットで、主人公マーティが1950年代の過去に飛んで両親に会う筋書きがすでに出来上がっている。結果的に日本でも大ヒットして、監督を務めたゼメキスの名が観客の間にも浸透し、続編『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』(1989年)と『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(1990年)のポスターでは、ゼメキスはスピルバーグと同じサイズのフォントでタイトルの傍に名前が出るようになった。めでたし、めでたしの話。

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