『シン・ウルトラマン』賛否両論のさまざまな要素を検証 日本映画としての“課題”も

 『シン・ゴジラ』(2016年)、『シン・エヴァンゲリオン』(2021年)と続く、既存の作品を新たな解釈で劇場作品として作り直す試みがなされた「シン」シリーズ。今回公開され、現時点で観客動員100万人、興行収入15億円を突破した『シン・ウルトラマン』と、2023年公開予定の『シン・仮面ライダー』を加え、その規模は拡大し続けている。

 さらには、それぞれの権利を持つ、東宝、カラー、円谷プロダクション、東映が合同で「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」なるプロジェクトを発表するなど、シリーズ全体の勢いは、作品外でも相乗的に増しているといえる。

 だが大きな注目を集める一方で、本作『シン・ウルトラマン』は、その内容に賛否の声が飛び交っているのも事実。ここでは、なぜ否定的意見が集まるのかも含め、作品のさまざまな要素を見直していきたい。

 本作の基となったのは、1966年から1967年までにTVで放送、「空想特撮シリーズ」と名付けられた、「昭和第1期ウルトラシリーズ」のなかの『ウルトラマン』(全39話)。現在まで長く続く「ウルトラシリーズ」で、記念すべき「初代ウルトラマン」とも呼ばれている。

 圧倒的な特撮技術で好評を博したTV作品『ウルトラQ』に続いて放送され、さらに広い支持を獲得し、長大なシリーズの礎となった『ウルトラマン』は、『ゴジラ』シリーズなどを手がけ、「特撮の神様」と呼ばれる円谷英二が率いる「円谷プロ」の代名詞であり、同時に初代『ゴジラ』とともに、日本の特撮の歴史における記念碑的な作品であるといえる。

 そんな伝説的作品を作り直すという難題に挑んだ中心スタッフが、企画、脚本、編集、モーションアクターなどを務め、すでに『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(1983年)なる自主映画で、非公式に「ウルトラマン」のようなものをパロディとして演じている庵野秀明と、今回監督を務めることとなった、樋口真嗣である。この座組は、『シン・ゴジラ』においても二人がタッグを組みながら、現場の主導権を握って自身の意向を優先させたといわれる庵野監督による配慮だと思われる。そうでなくとも、同時に進行していた『シン・エヴァンゲリオン』製作に忙殺されていたことや、その後の『シン・仮面ライダー』の監督を手がけるという事情を考えると、本作の現場を指揮することは困難だったはずだ。

 ただ、樋口真嗣が監督だとはいえ、全体のコンセプトは庵野秀明のものであり、その意向が強く反映していることを考えると、本作が最終的に誰の作品なのかを判断することは難しい。その複雑さを象徴しているのが、本作の印象的な撮影方法だ。とくにドラマパートにおいて、庵野秀明の心酔する、「ウルトラシリーズ」の演出を複数手がけている実相寺昭雄監督に見られる、対象を意外な角度から捉える先鋭的な構図、いわゆる「実相寺アングル」への極端なオマージュである。

 このアクセントになり得るトリッキーな構図が、本家の実相寺演出よりも多用されていることで、本作のドラマパートが異様なものになっていることは確かだ。そんなカットを、現場でiPhoneを含め複数のカメラを回して樋口監督が撮っていて、さらにそれを庵野秀明が編集したと、公式に伝えられている。だとすれば少なくとも、樋口監督は現場で庵野作品に近い作風のものを撮ろうとしていたことになる。

 これは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。『シン・ゴジラ』での成功は、庵野監督が現場の空気を読まずに意見を押し通すという、一種の“暴走”から生まれているものであり、これが功を奏したことで、観客の多くもまた、本作に「庵野作品」であることを期待しているのである。「シン」の名を冠する本作が、その期待に応えるものでなくてはならないとすれば、樋口監督の演出の方向性は、最初からある程度定まってしまっているといえる。

 とはいえ、樋口監督がそのような制約にこだわらず、自分の思い通りに演出した作品を撮ったとして、それが庵野秀明的な撮り方を模倣した本作より出来が良くなるかどうかは、樋口真嗣が監督でなく特撮を担当した作品の方が評価が高い場合が多いという事実を見ても、微妙なところなのではないだろうか。

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