『恋せぬふたり』が示した“救い” 岸井ゆきのと高橋一生が話し合った“自分たちの幸せ”
人は言葉によって縛られ、言葉によって救われる。言葉を紡いで生きる私たちにとって、人生は自分らしさを示す言葉探しの旅なのではないだろうか。同じ言葉を話しているようでも、私の「幸せ」とあなたの「幸せ」が異なるように。きっと、私たちはその言葉をすり合わせることによって、より鮮明に自分自身の「ベスト」が見えてくるのだ。
3月21日、よるドラ『恋せぬふたり』(NHK総合)がフィナーレを迎えた。振り返れば、この物語も咲子(岸井ゆきの)が羽(高橋一生)のブログを通じて、そして私たち視聴者がこのドラマを通じて「アロマンティック・アセクシュアル(他者に恋愛感情を抱かず、性的にも惹かれない人)」という言葉を知るところからスタートした。
どうして恋愛をしないと「おかしい」と言われるのか。どうして恋愛が描かれなければドラマが成立しないのか……そんなモヤモヤを抱えていた咲子にとって、また同じような気持ちでいた人にとって、「そういう人もいる」と言葉で示してくれたことは、ひとつの救いになったはずだ。
名前がつくことで、未知だったものが実在する。言葉にすることで、その理解が深まる。そういえば第1話で羽が「ちゃんと名前で呼んであげたくなる」と言っていたのも、同じキャベツの中にも、それぞれ違う魅力があることを認めてあげたいという心持ちからだった。
人も同じように、それぞれ名前が異なる。その数だけ個性があり、いいと思う生き方がある。「アロマンティック・アセクシュアル」という名前がついてもなお、その中でまたグラデーションもあるということ。1人ひとりを示す言葉に、もっと丁寧に耳を傾けていこうではないか。それを諦めなければ、きっと私たちはもっと自由に生きられるはずなのだから。
咲子と羽はアンケートという手法を用いて、自分のことを、そして相手のことを把握していった。そして、ふたりの中で新しい幸せの形として“恋愛感情抜きの家族”=「家族(仮)」の概念をすり合わせていく。
恋を求めていなくても、誰かと暮らしたい。心から寄り添いたいと願いながらも、身体的な接触は避けたい……。それは多くの人が「家族」という言葉から得るイメージとは違う部分も少なくないかもしれない。だが、ふたりの中でその定義が一致していれば、それが正解でいいのだ。
よく家族になる上で「話し合いが大事」と言われるが、その「話し合い」と呼ばれる作業こそ、言葉の定義づけなのかもしれない。パートナーとの間でどんな状態を「自分たちの幸せ」と呼ぶか。
自分にとって当たり前にそうだと思っていた言葉が、相手にとっては全然違う意味として認識されていることだってある。「年越しそば」ひとつとっても、そうであるように。「年越しに食べてこそ」と思う人もいれば「夕飯と一緒でいい」という人もいて、なかには「うどんもそばも食べちゃえばいい」と柔軟に捉えている人もいる。
だから一緒に暮らして同じように理解していると思っていても、ときにはズレがあるかもしれないと話し合って調整する必要がある。その機会を設けることで、そこから新しい意味を見つめ直して、より心地よい生活を目指すことができるかもしれない。