『私ときどきレッサーパンダ』は時代を変革する 映画史上に残る重要作品となった理由

 また、移民の子どもたちという、当事者であるスタッフのアイデンティティもまた、メイメイの複雑な感情に色濃く投影されている。自分たちのルーツである東洋の文化や、親への敬意から、西洋のポップカルチャーや思想に無批判的に飛び込むことへの後ろめたさや、一族の一人としてのプレッシャーなど、独特の苦労を彼女たちは経験してきている。チャイナタウンのお寺の手伝いをしながら、門の左右に鎮座する狛犬を、アメリカのTVアニメ『ザ・シンプソンズ』のキャラクターの愛称で呼んでいるところは、メイメイの文化的な複合性が象徴されている部分だ。

 レッサーパンダに変身するという“赤きパンダ”の力は、メイメイが精神をコントロールすることで抑制することができる。中国以外のルーツを持つ、学校の親友たちとの交流が、その助けになるという本作の展開は、中国系としてのプレッシャーを一時忘れ、趣味や本音などの面で友人たちが、ありのままの自分を受け入れてくれる“外部的”存在だったからだろう。

 この呪いのような力は、当初はやっかいなものとして描かれ、母親や一族の協力によって、封じ込めるしかないと説明される。だが一方では、レッサーパンダであることを評価して喜んでくれる仲間たちもいる。これはクリエイターの立場で言うならば、自分の趣味趣向を最大限に発揮して、ものづくりの才能を披露することで、周囲に評価されることを表しているといえよう。だが、そういった道に進ませたくないと考える家庭は少なくない。その兆候が見え始めたときに親から釘を刺され、力を“封印”するように促されることもある。そこで思い悩むメイメイの分裂した状態が、レッサーパンダへの変身として暗示されているのだ。

 さらに、ここでもう一つ表現されているのが、女性であることの不自由さだ。レッサーパンダへの変身は、生理のメタファーにもなっている。多くの女性が経験する身体的な変化を経験することで、女性が女性であることを強く意識するようになるというのは、珍しい話ではない。だが、そのように女性としての自意識を獲得するのは、必ずしも幸福なことだとは言えないはずだ。社会は性差別の撤廃に向けて少しずつ進歩しているとはいえ、まだまだ女性が抑圧されている現状があるからである。ピクサーがやっと真の意味で女性中心の作品を作ることができたように、自分のやりたいことを追求しようと思っても、現実の社会では女性であることが足枷になってしまうケースも少なくない。

 メイメイの一族の女性たちは、その力を邪魔なものとして、多くが“赤きパンダ”の力を、自分の胸に“封印”してきた。社会の求める女性の在り方と戦うのでなく、順応することを選ぶことを選択したということだ。もちろん、責められるべきことではないだろう。それを望んだのは、むしろ抑圧的な社会の方であり、彼女たち以外の人間の意志だからだ。

 日本の作家、樋口一葉は『たけくらべ』のなかで、少年と同じように遊ぶ天真爛漫で活発な少女を描いている。しかし、あることをきっかけに少女は積極性を失い、世間がいうところの、大人しくて慎ましやかな“女性らしい”性格に変貌してしまう展開を、読者に見せる。少年が大人に成長しても、無邪気な“男の子”のままでいることが許されている状況があるなかで、少女は“女の子”のままで成長することが難しい。その背後にはやはり、文化的な因習や社会状況がある。

 映画『82年生まれ、キム・ジヨン』(2019年)でも、韓国の女性を主人公に、封建的な社会のなかでの苦しみが描かれている。それは、主人公に他者の人格が乗り移るという怪現象によって暗示されているが、そこにはさまざまな女性の抑圧への悲しみや、自分の夢を捨てざるを得なかった無念が投影されていた。このようなアジアの同種の問題を描いた作品に触れると、西洋社会よりも女性にとってさらに厳しい、アジア圏の文化の特殊性が浮かびあがってくる。

 “赤きパンダ”の力を持った始祖であるサン・イーという一族の女性は、古い時代の中国で、学者であり詩人として活躍した存在なのだという。彼女が封建的な環境や習わしのなかで、自分のやりたいことを追求したのは、並大抵のことではなかったはずだ。そこで自分の心のままを押し通していくための強い精神力を必要としたことが、彼女が“赤きパンダ”の力を手にすることになったという伝説の真実だったのではないか。だからこそ、劇中で時空を超えて手を結ぶメイメイとサン・イーの間で交わされる、同志のような表情のやりとりは感動的だ。

 そのようなメイメイの精神の旅は、ドミー・シーやロナ・リウはもちろん、他の国や人種であっても、自分のやりたいことを追求して生きたいと願いながら、障害に阻まれる多くの女性が経験するものなのではないだろうか。しかし、その願いは紛れもなく実現可能なものだ。なぜなら本作はそれ自体が、監督たちの自由の追求の結果であり、好きなものだけで構成した素晴らしい“成果物”として、まさに説得力のある実例になっているからである。

 本作はこのように、女性たちの活躍の道を現実の世界でも切り拓きながら、アニメーションの内容そのものも、そのことをテーマにした作品だったといえるのだ。だからこそ、ここには心の底からの熱い思いや願いが込められている。女性個人の意志や、意志を曲げざるを得なかった人々の生き方をも描き、さまざまな生き方に敬意を払いながら、新しい世代に大きな希望を与えるものとなったと感じられるのだ。

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