男と男の“魂の継承”の物語 『僕を育ててくれたテンダー・バー』にみる“男らしさ”の価値観

『僕を育ててくれたテンダー・バー』の男性性

 本作は一見、あまり起伏がなく、一人の人物のリアルな少年時代と青春時代をそのまま描いただけの物語に感じられるかもしれない。だが、貫かれているテーマに気づくことで、ここで紹介してきた様々なエピソードがしっかりとした像を結ぶことが理解できてくるだろう。その根本にあるのが、J・Rの「アイデンティティ」の問題だ。

 「J・R」が「Jr.(ジュニア)」の意味であることが劇中で説明されるように、J・Rにとっての、かつての父親の存在は大きい。そんな父親に捨てられ、ぞんざいに扱われた経験から、J・Rは自分自身にどこか自身が持てないでいた。だから彼は、優秀でありながら主導権が取れず、一歩引いてしまいがちなのである。それでも彼は、父親が文化的な仕事で成功した事実については、一貫して誇りに思ってきたように見える。少なくとも、モーリンガー家にそのような人物はいないのだ。

 しかしある日、転機が訪れる。大学卒業後、久しぶりに父親と会う機会ができたのである。家に招待されたJ・Rは、そこで父親がパートナーに暴力を振るうのを目撃する。それは、“たとえハサミで刺されたとしても絶対にやってはいけないこと”だ。ついにJ・Rは、ここにきて父親に激しい怒りをぶつけることになる。チャーリーが教えてくれた「アメリカの男」の美学、そのほとんどに当てはまらない父親のクズな姿を目の当たりにすることで、今度は逆にJ・Rの側が父親を捨てるのである。

僕を育ててくれたテンダー・バー

 チャーリーやバーの客たちから得た教訓には、たしかに無駄なものも多かったかもしれない。だが、そのなかで最も大切なものは、自分の美学やスタイルを持ち、それを曲げない生き方をすることだった。そして、そのように自分の生き方を尊重して貫く姿勢は、とくに作家にこそ最も必要なものであるはずだ。J・Rはここで、一人の男として、個人としての「アイデンティティ」を手に入れることとなると同時に、作家としての入り口に立つのである。その成果は、経済的に裕福な生活を手に入れることよりも、J・Rにとって意義のあるものだ。ラストに流れる、スティーリー・ダンのヒットナンバー「Do It Again」は、そんな新しいJ・Rにぴったりの、シブいスタイルを持った曲である。

 もちろん、自分の美学を持つこと、意志を貫くことは男だけに限った話ではないし、近年のアメリカ映画では“男性性”は悪いものとして描かれがちである。実際、本作のJ・Rの父親のように、女性や子どもなどを傷つけたり威張り散らすことで自分のプライドを満たそうとする、歪んだ価値観を持った男性は社会に少なくないし、そのような“男らしさ”など消え去った方がいいという考えは正しいだろう。とはいえ、弱い人々を助けたり、私利私欲に飲まれない強さを持つなど、“男らしさ”を高潔な考え方や、正しい行いに変換することができれば、その姿勢をポジティブにとらえることも可能なのではないか。

僕を育ててくれたテンダー・バー

 監督を務めたジョージ・クルーニーもまたダンディーでムンムンとした男性的魅力で、とくに30代以降から、多くの女性の心をとらえてきた俳優である。プレイボーイとしてゴシップ誌のネタになることも少なくなかった彼だが、一方で、紛争問題や人種差別など、多くの社会問題に意見を表明し、率先して活動に加わってきた人物でもある。それは社会正義を貫くという、自身の信念に基づいた行動であるはずだが、その一部分に彼の男性の美学としての自己満足が含まれていたとして、それは責められるべきものだろうか。

 これからの時代は、性別による社会的な扱いの違いが、これまで以上に問題とされ、是正される流れが強まっていくだろう。その流れのなかで“男らしさの美学”という価値観が生き延びる突破口が存在し得るというのなら、それは、“正しい生き方をする”という一点にしかあり得ないのではないのか。それが、本作がチャーリーとJ・Rの関係を通して描いた、古いアメリカの伝統のなかに存在する、ささやかな可能性であるように思えるのだ。

■配信情報
『僕を育ててくれたテンダー・バー』
Amazon Prime Videoにて独占配信中
監督:ジョージ・クルーニー
出演:ベン・アフレック、タイ・シェリダン、リリー・レーブ
(c)Amazon Studios

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