『マトリックス』シリーズとは何だったのか 『レザレクションズ』に込められたメッセージ

 2020年5月、象徴的な出来事が起きた。アメリカ大統領選の前に著名な実業家のイーロン・マスクが、Twitterで「レッドピルを飲もう」とツイートし、それに対して当時の現職大統領の娘イヴァンカ・トランプが、賛意を示したのである。「レッドピル(赤い錠剤)」とは、『マトリックス』の仮想世界からの覚醒において登場するアイテム「レッドピル」、「ブルーピル(青い錠剤)」の一つで、それぞれ“困難な真実を選ぶ”、“都合のいい嘘を選ぶ”という、選択の象徴として表現されていた。そんなマスクとイヴァンカ・トランプとのやりとりに対し、リリー・ウォシャウスキーは、「お前らどっちもくたばれ(Fuck both of you)」と言い放ったのだ。

 この話には、前提の説明が必要だ。アメリカでは日本と異なり、国の政治における代表者を、国民が選挙をして決定する。そして、保守的な「共和党」、リベラルな「民主党」の両代表から、全米が一人を選択することとなるのである。問題は、党のイメージカラーが、それぞれ赤、青であるということだ。SNSの一部界隈では、このことから、真実を選択し覚醒を促す「レッドピル」が、民主党の欺瞞を暴き共和党の代表を選択するという意味の“ネットミーム”として利用されていた。そして、この時期に「レッドピルを飲もう」という発言の意図は、「ドナルド・トランプを選ぼう」と受け取られることとなる。

 それだけではない。この「レッドピル」という言葉は、女性差別主義者が、男女平等の思想を否定するために使用することもあるのだ。「白うさぎを追え」という『不思議な国のアリス』を由来とする『マトリックス』からの引用もまた、大統領選不正デマによって、議会に暴徒が乱入するという事件を起こした、荒唐無稽な陰謀論を展開する「Qアノン」の合言葉になったこともあった。

 これら陰謀論や女性への偏見、そして差別的な思想を強化しようとする用途で『マトリックス』シリーズが引用されていたことは、トランスジェンダーとして、また女性として生きているウォシャウスキー姉妹にとって、これ以上のない侮辱である。なぜならウォシャウスキーは、そんな古い差別的な考え方からの革命をこそ、『マトリックス』シリーズで描いていたからである。

 もちろん、『マトリックス』シリーズをどのように受け取り、どこに魅力を感じようと、観客の自由である。しかし、作り手の意図を正反対のメッセージに改変させ、抑圧的な人々が“救世主ネオ”であるかのように振る舞い、過激な行為に出ることには我慢がならなかったというのが、作り手の立場だろう。だからこそ、“『マトリックス』シリーズとは何だったのか”という補足説明が必要だったのだ。とはいえ、リリー・ウォシャウスキーは、フランチャイズによる大作の仕事から離脱することを決めたため、本作に限りラナ・ウォシャウスキーが単独で監督を務めてはいるのだが。

 近年、SNSで起きている問題は、古く抑圧的な価値観を、あたかも“革命的で新しい”概念であるかのように表現する言説がまかり通っていることだ。多様な価値観を認めないことの方が、むしろ正直で理に適っている、概念に縛られない自由な考え方なのだと。しかし、その考えが実際に支配的になるということは、結局昔と何も変わらないことを意味し、主流の価値観以外のところで生きている人々は、依然として救われることがないのである。つまり、この種の言説は、現状を変えさせないための単なる偽装や詭弁でしかないのだ。

 ニール・パトリック・ハリスが演じる役柄は、まさにそのように詭弁を弄し、現状を変えようと奮闘するネオたちを冷笑する。そして、『マトリックス』という“革命的思想”を、ゲームの中だけのストーリーであるかのように意図的に陳腐化し、あらゆる古い思想を“新しいバージョン”として、仮想世界「マトリックス」に持ち込んだ存在だ。シリーズの中で新しい女性像として登場したはずのトリニティーは、本作では性別としての従来の役目(ジェンダーロール)を与えられた状態で登場する。人類の砦は時代とともに発展を遂げている一方、「マトリックス」の中は、現代のSNSの一部のように退化していたのである。

 環境に甘んじて、現状維持を選んだ者たちは、継続して社会の養分になり続けるというメッセージは、これまでのシリーズでも発せられてきた。だが、本作でショッキングなのは、そんなマトリックス内の人間たちが、“管理者”に操られ、ゾンビのようにネオたちを襲ったり、道を塞ぐためにビルから次々と落下させられるという描写だ。これは、自分の頭で考えることをせず、大きな力に従うことで生きている者は、ゾンビであり死人であるという、監督の痛烈な皮肉であるとともに、「Qアノン」をはじめとする、ネット上で過激化、暴力化していくカルト的思想への警告でもあるだろう。

 そんな現在の世界を投影した本作は、ただただ絶望ばかりが目立つところがある。だが、その反面では熱く“希望”を描いているのも特徴的だ。それを強く象徴しているのは、バッグスらが仮想世界から脱するきっかけとなったエピソードである。アンダーソンが高層ビルの屋上から踏み出す奇跡の瞬間を、彼女は見上げていた。そして、そこから世界を変えようとする新しい闘士となっていくバッグスは、過去の『マトリックス』シリーズのメッセージを受け取り、現実に向き合って闘うことを決めた人々の代表である。

 本作で、ラナ・ウォシャウスキー監督は、『マトリックス』シリーズを、自分の手と、メッセージを受け取った観客たちの手に取り返したのである。その意味では、より様々な解釈を読み取ることができた、いままでのシリーズに比べると、本作は解釈の可能性や観客の幅を狭くしているともいえるだろう。しかし、それでも監督は、この作業をやるべきだと思ったのだ。それが世界との新たな闘いであるという、自分の心を信じて。それこそが、本来の自分として信じる道を進もうとする、『マトリックス』の精神なのである。

■公開情報
『マトリックス レザレクションズ』
全国公開中
監督:ラナ・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーブス、キャリー=アン・モス、ジェイダ・ピンケット・スミス、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世、プリヤンカー・チョープラー、ニール・パトリック・ハリス、ジェシカ・ヘンウィック、ジョナサン・グロフ、クリスティーナ・リッチ
配給:ワーナー・ブラザース
(c)2021 WARNER BROS. ALL RIGHTS RESERVED
公式サイト:matrix-movie.jp
公式Twitter:@matrix_movieJP

関連記事